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ラノベを目指してみよう
グース・カピーこと九重十造が人様を楽しませられるレベルの文章を目指して色々書き連ねる場所です。          軽く楽しく読める話を書ければいいなと思ってます。
白衣の英雄44
 どこか遠くから、ドドドドドッと床を蹴る音が響く。
 足音の主の怒り具合を示すかのように、速く力強い音だ。
 まるでその向かう先にいる者を威嚇するかのように、加速度的にその音は大きくなっている。
 
 が、海人は動じる様子を見せなかった。

 豪胆さゆえに平然としているわけではない。
 今取りかかっている研究にのめり込み過ぎて、その音が何を意味するのか理解できなくなっているだけだ。
 連日まともな食事も摂らずに続けた徹夜は、研究以外における彼の判断能力を著しく奪っていたのである。
  
 そして、この屋敷ではすっかり日常と化した惨劇が起こる。 

「こんのお馬鹿ぁぁぁっ! 三日に一度は顔見せろって何度言えば分かるかぁぁっ!?」

 肩口で切り揃えた金髪をたなびかせ、足音の主が研究室のドアを轟音と共に開け放った。
 その込められた力の為か、特殊合金製の非常に頑丈な扉が一瞬たわんで見えた。

 作業に没頭していた海人もそれには反応し、振り向く。
「……む? エミリアか……どうかしたのか?」

 足音の主――自分の妻の憤怒の表情を胡乱気に見やる海人。
 
「あ・ん・た・ねぇぇぇっ……! 今日で何日目だと思ってんの!?」

「あー……確かプログラムミスを直し始めたのが……」

「考える前にパソコンの時計見なさい」

「それもそうだな。えーっと――」

 日付が表示された瞬間、海人の目がくわっと見開かれた。
 同時に先程までどこかぼやけて感じられた周囲の光景が、はっきりと鮮明に像を結ぶ。
 美しい妻の、悪鬼羅刹の如き憤怒の形相も。

 画面に表示された日付は、作業開始から丸五日後のものであった。

 ――――これは、極めてまずい。

 食料を三日分しか持ち込んでいなかったため栄養が足りていない事は、この際どうでもいい。
 気が付いたら空腹が襲ってきて腹も鳴ったが、少しばかり辛いだけだ。

 何日も風呂に入っていなかったため匂いがする。これもどうでもいい。  
 体を洗えば済む話であり、せいぜい妻に風呂に叩き込まれて丸洗いされるだけで済む。

 が、目の前に表示された経過日数によってこれから起こるであろう惨劇。これはいけない。
 真剣に命の危機だ。

 それを証明するかのように、目の前の妻は憤怒の表情から徐々に笑顔になりつつある。
 まるで最後の手向けだと言わんばかりに。
 
「ま、ままままま待てエミリア! わざとじゃない! わざとじゃないんだ!」

 怯え慄き、座っていた椅子の背後に慌てて隠れようとする。
 無駄だろう、とは嫌になる程理解していたが。
    
「ほほう……これで何回目かしらねぇ? わざとじゃないなんて――説得力があると思うのかしら?」

 夫が盾にしようとした椅子を横に蹴り飛ばし、エミリアは一歩前に出る。
 相当お怒りらしく、なかなか値段の張る椅子のキャスターが壊れる音に振り向く様子もない。
 その剣幕に気圧されたように海人がずりずりと後退するが、彼の妻はずかずかと間合いを詰め、屈んで襟首を掴みあげた。

 だが、この先の運命を悟った海人が歯を食いしばったところで、

「はあ……まったくもう、多少無茶するのは仕方ないけど、体は大事にしなさいっての。
ほら、今回は許してあげるからベッド行きましょ」

 エミリアは嘆息と共に手を放し、ふらつく夫に肩を貸した。
 顔は怒っているが、その仕草には一つ一つ優しさが滲み出ている。

 海人はそんな妻にやや拍子抜けしながらも、苦笑していた。

 エミリアは口より先に手が出るし、味にうるさく自分の方が料理が上手いくせに夫に作らせたがるし、
相手にならないのが分かっていて夫に運動不足解消と称して組手の相手を務めさせるような困った女性だが、
それらの問題点を差し引いても十二分に出来た妻だ。

 今回のような場合にお仕置きとして様々な武道を修めたその力を振るうのも、つまるところは海人のためである。
 研究に夢中になると寝食を忘れる海人は、酷い時はまともに動けなくなるまで体調悪化に気付かない。
 エミリアはそれを防止するために夫に細かく注意をしているのだ。

 むしろ最初は短気な性格を必死で抑えて根気良く口頭注意で済ませてくれていたのを、
投げ、打撃、関節、締めのコンボにまでエスカレートさせてしまった海人にこそ非があるだろう。
 そこまで至った今でさえも一日オーバーまでは説教で許される事を考えれば、尚の事。
 
 さらに言えば、次に起きたらいつものように焼き立てのパンや柑橘系の果物が用意されているだろう。
 味と栄養価の両方を極限まで追求した、現在も時折こっそりと夜中に改良を重ねている特製シチューと共に。

 考えるまでもなく、良く出来た妻である。
 最高の妻とは言えないかもしれないが、海人の妻としてはこれ以上なく最適だ。 
 
 そしてそんな妻だからこそ――海人もついつい甘えてみたくなってしまう。

「あー……もう少しで修正終わるんで出来れば後六時間ぐらい――」   

「とっとと寝なさいっ!」

 優しくはあっても甘くはない妻の怒号と共に双手背負いが決まり、海人の意識は刈り取られた。   































「のおぉぉぉぉあぁぁっ!?」

 海人は魂消るような悲鳴を上げながら、飛び起きた。

 椅子から転がり落ちながら、周囲を見渡す。
 当然ながら、前住んでいた屋敷の研究室ではなく、今住んでいる屋敷の研究室だ。
 昨晩遅くまで檜風呂用のデータや授業用の教科書の作成に時間を費やしていたため、
そのまま寝入ってしまったのである。

 椅子に座り直しながら、海人はぼやく。

「何でよりにもよってあんな記憶なんだか……」 

 今見た夢は非常に懐かしく、狂おしい程に愛おしい夢だったが、同時に恐怖の記憶でもある。
 良い思い出は他に山ほどあるというのに、何故こんな夢を、と思わずにはいられなかった。

 デートの記憶、などという贅沢は言わないが、組手に付き合わされてタコ殴りにされた記憶ぐらいであってほしかった。
 エミリアはかなり厳しめな印象の美女であるため、怒った形相は本気で怖かったのである。 
 
「……だが、久しぶりに会えた、か」

 白衣の袖で汗を拭い、天井を見上げる。

 いかに恐ろしい記憶だろうが、妻の顔が見れた、声が聞けた、それだけで海人は嬉しかった。
 写真はこの屋敷に住み始めた時に創造魔法で作っていたが、やはり夢でも生きている妻を見れたのは嬉しい。

 それが過去の記憶でしかないという事は、嘆いても嘆き足りないが、
怠惰で妻を死なせた自分にはこれでも過分とも言える。
 あの時、他のちょっとした研究には目もくれず必要な研究にのみ注力していれば、
エミリアも生まれてくるはずだった我が子も死なずに済んだはずなのだから。 

 と、そんな自虐的な思いに駆られかけた瞬間、海人は首を思いっきり左右に振った。

(……いかんいかん。反省するのは大事だが、暗くなってはルミナスに面目が立たん。
今は刹那達もいるんだから、尚の事前向きに生きんと)

 両頬を軽く引っ叩き、気を引き締める。

 悔やむ気持ちは尽きないし、己の愚かしさを呪う思いも消える事はないが、
それでも少しは前向きに生きなければならない。
 
 どうしようもない絶望感から死の側に偏っていた自分の思考を多少なりとも生の方向に引き戻してくれた友人の為、
そして高い実力を持つにもかかわらず自分などの護衛をやってくれている二人の為、
前を向いて生きなければならないのだ。 

 改めてそんな決意を固めた海人は、手始めに整理整頓からと周囲を見渡し――固まった。

「……少し休んで周囲を見ろ、という事かね」

 憂鬱そうに、息を吐く。

 気にする暇や余裕がなかったというのもあるが、部屋は散らかり放題である。
 あちらこちらに教科書の没案の紙などが散らばり、さながらゴミ箱のようだ。
 それ自体は毎度の事だが、今回は普段の倍か三倍以上の散らかり具合で足の踏み場もない。
 防衛設備の設置案を考えていた時から、全く片づけていなかったためだ。

 海人自身も一応風呂には入っていたため体が匂うというような事にはなっていないが、
鏡を見れば髪はボサボサで目の下に隈も出来ており、とても健康そうには見えない。
 最近ようやく身なりに多少気を遣う気になったというのに、これでは台無しである。

 このままでは、遠からず刹那や雫に余計な心配をかける事になるだろう。
  
 先程の夢が何らかの啓示と思ったわけではないが、思い切った気分転換を考える切っ掛けには十分だった。
 
「……三人でカナールにでも行くか。一日ぶらぶらしていれば気分転換には十分すぎるだろうし」
  
 そう呟くと、海人は思いっきり伸びをし、床に散乱した紙を踏み越えながら地下室を後にした。 



























 浴室で体を洗い、髪を整えた海人が厨房に向かっていると、軽快な鼻歌が聞こえてきた。 
 その高く軽やかな音色に加え、時折カッカッと何かを軽く打つ音が響き、まるで祭囃子のようである。
 音程も外れる事が無く、かなり上手い演奏であった。
 なによりその賑やかな音色は妙に気分を盛り上げ、精神的な疲れが癒していくような印象を受ける。
 
 海人はその音色に浸りながら厨房に入り、演奏を奏でている少女の背に声を掛けた。

「おはよう、雫」

「あ、おはようございまーす」

 挨拶を返しつつ、雫は鼻歌を止めて菜箸を握り直した。

 一瞬海人が残念そうな顔をしたが、それには気づかず雫は怪訝そうな顔で鼻をひくつかせた。
 そのまま海人の体に鼻を寄せ、
 
「お風呂入ってきたんですか? 言ってくれれば温かいお湯張ったのに」

「水で十分だったし、手を煩わせるのも悪いと思ってな。
ところで刹那はどうした?」

「お姉ちゃんなら裏の森に卵取りに行きましたよ。
ついでに肉も適当に狩ってくるって言ってましたけど、朝食には充分間に合うと思います」

 冷蔵庫から漬物を取り出しながら説明する。

 刹那は朝の鍛錬が終わった後、すぐさま屋敷の裏の森へ向かった。
 朝食用の卵が足りなかったため、補充しに行ったのである。
 
 無論、補充と言っても魔物の卵を狩りに行くという事なので、そう簡単な事ではない。
 
 卵を取ろうとすれば親は当然ながら烈火の如く攻撃を仕掛けてくるし、
刹那が狙う卵はグランバードという比較的上位の魔物の卵であるため、
生半可な実力では確実に返り討ちである。 

 とはいえ、刹那は戦闘能力という一点においては群を抜いているため、
それを熟知している雫は勿論、海人も心配する事は無かった。 
 
「そうか。今日の献立は?」 

「お姉ちゃん次第ではありますけど、ランページフィッシュの塩焼きとほうれん草の御浸し、
それにひじきの煮つけと卵焼き、豆腐と油揚げのお味噌汁、あとは白いご飯とお漬物ですね。
あ、御要望があれば他にも作りますよ?」

「いや、充分だ。……ふむ、その献立なら影響はなさそうだな」

「へ? どういう事です?」

「いや、ここ数日作業作業で屋敷から動いてなかったんで、気分転換がてらカナールに遊びに行こうかと思ってな。
ついでだから、昼食は屋台の食べ歩きかリトルハピネスにでも行こうかと思っていたんだ」

「ホントですか!? いや~、楽しみだなぁ~っ!
さっすが海人さん、気が利きます! 最高です! 
両方行こうって言ってくれたらもっと良いですけど!」

「それは構わんが……刹那が行く気になるかどうかも問題だぞ?」

「あっはっは、お姉ちゃんが海人さんが行きたがってるって聞いて拒む場面想像できます?」

 雫のそんなあっさりとした言葉に、海人は苦笑せざるをえなかった。

 確かに刹那の性格からして、一応とはいえ主である海人が望んでいると聞けば余程の事でない限り拒む事は考えにくい。
 少し気が進まないと思っても一切表に出さず素直に従うだろう。
 
 助かると言えば助かるのだが、海人としてはもう少し欲求を表に出して欲しいと思っていた。
 矢継ぎ早に何かを要求されても困るが、自分からは殆ど一切要求しないというのも扱い辛いのだ。
 本当は何か要求があるのではないか、と妙に勘繰ってしまう。

 そういう意味では、海人にとっては雫の方が扱いやすい。 
 彼女は必要だと思えば即座口に出すし、遠慮も一切ない。
 時折昨日の腕枕のように対応に困る要求をされる事も多いが、一応許容範囲内だ。

 とはいえ、雫にも刹那の奥ゆかしさを身に付けてもらいたいと思う時がままあり、
決して扱いやすいわけではない。あくまで刹那に比べれば、の話である。

「む、なんか不快な事を考えてませんか?」

「御想像にお任せしよう。ところで、先程の演奏は何だったんだ?」

 勘の鋭い雫の指摘を受け流しながら、問いかける。

「あ~、あれはうちのお母さんが良くやってたのの真似事です。
陽気で独特な音楽なんで、あたしは結構好きなんですよ。
あんまり上手くないんですけどね」

 照れくさそうに、頬を掻く。

 雫は音感は悪くないと自負しているが、正式に音楽を習ったわけではない。
 あくまで余技に音楽を身に付けていた母が、料理中の暇潰しにやっていたものの真似事にすぎないのだ。

 が、海人はその音色でも十分気に入っていた。
 
「いや、なかなか良い音だった。できればもう少し聞いていたかった程度にはな」

「あはっ、そう言ってもらえると嬉しいですね。そんじゃ、御要望にお応えしましょう。そいやっ!」

 ノリノリになった雫によって、明るい演奏が再開された。
 先程よりも思い切った、歯切れの良いリズムで。
 菜箸で石材で出来た調理台の角を叩いてリズムを取り、
それに乗せて口笛を吹くという単純なものではあったが、それは立派な音楽であった。

 海人は穏やかな気持ちで、その調べを聞きながら米が炊き上がるのを待つ事にした。
  




























 ラクリアは森の木を背に、身を休めていた。

 無事王城を脱し国境も突破したのだが、いかんせん疲労が大きかった。
 上位の魔物であるフェンは最速と謳われる健脚で走り続けてもなんともないが、
その神速の獣の手綱を握ってしがみつき続けたラクリアの方が参ってしまったのである。
 
(……慣れたつもりだったけど、やっぱり道楽の域は出てない) 

 擦り切れてしまった自分の手を見、肩を落とす。

 昨晩から自己治癒力を強化し続けたおかげで傷はかなり塞がっているが、元々色白な手であるだけに痕が目立つ。
 遠からず消える事になるとはいえ、自分が箱入り娘だという証明のようなそれは見ていて悲しかった。
 
「ウォンッ!」

 吠え声と共に、ラクリアの前にブラックボアの死骸が落下した。
 
 他の部位は無事だが唯一頭部だけが食い千切られている。
 無惨な状態だが、逆さにして血抜きしたらしく、そのズタズタの切断面からは血が流れていない。
 後は解体するだけで食料になる。
  
 ラクリアはボリボリと何かを咀嚼しているフェンに礼を言い、飛翔魔法で浮かせた獲物の皮を剥ぎ始めた。

 その手つきは拙く、お世辞にも上手くはなかったが、
ラクリアは可食部分をかなり削りつつもどうにか皮を剥ぎ終え、内臓も取り出し終えた。
 拙い作業ゆえに血まみれになってしまっているが、とりあえず今日の食料は確保できたのである。

 早速肉を切り分け、城から持ち出した塩をかけて焼き始める。

 香ばしい香りが漂い始めたら空中に浮かせて焼いている肉を裏返し、また焼く。
 肉の表面に溜まっていた肉汁が火に落ち、ジュッという音と共に蒸発する。
 焦げ目がついたあたりで火を消し、重ねておいた青葉の皿の上に載せ、
城から持ち出したナイフとフォークで切り分けて口に運び――その味に、むせた。  

「ゲホッ、ゲホッ………………辛くてしょっぱくて……痛い」

 辛そうに舌を出し、無詠唱魔法で空中に出した水の球をごくごくと飲み干す。
 
 幸いにも火加減は多少焼きすぎ程度で済んだが、味付けは加減が分からなかった。
 塩胡椒を使うのは知っていたが、使った量が多すぎたのである。

(多分、本来の必要量は今使った分の一割未満……どうしよう)

 むむむ、と考え込む。

 贅沢を言える身分ではないが、ここまで塩気が強いとこのまま食べるのは難しい。
 捨てて焼き直すという選択肢もあるが、貴重な調味料を使ってしまった以上元を取りたい。
 なにより、一部とはいえ心配そうに自分を見つめるペットが取って来てくれた物を捨てるのは辛いものがある。

 どうしたものかと悩んでいると、ラクリアの視界にとある植物が入った。

 とてとてとそれに駆け寄ると、彼女はその植物の下を掘った。
 すると、すぐに目当ての物が見つかった。

「……やっぱり、ゼロンド芋」

 土を払い落としながら、嬉しそうに微笑む。

 食べた事はないが、王城の使用人達が立ち話をしている際に小耳に挟んだ事がある。
 塩気の強い食べ物と茹でたゼロンド芋の組み合わせは絶品だ、と。
  
 期待を込め、再び魔法で火を起こし、その上に大きめの水球を作って飛翔魔法で浮かせる。
 グラグラと水が沸き立ち始めたら土を落とした芋を中に入れ、しばし待つ。
 茹で上がったところで火と水球を消し、肉の乗った皿でキャッチすると、今度は芋と一緒に肉を頬張った。

「……これなら食べられる」

 嬉しそうに、笑みを零す。

 決して美味ではないが、自分で作ったという充足感がある。
 一度は食えた物ではない、と捨てようか少し悩んだだけに感慨も一入だった。

 ラクリアがパクパクと食べ進めるのを見届け、フェンは再び森の奥へと入って行った。
 主の食料を真っ先に運んできたため、彼はまだほとんど食べていないかったのだ。
 
 見る見るうちに消えていく巨体を見送った後、ラクリアはふと首を傾げた。
 先程は塩辛さで気付かなかったが、それに慣れてくると肉の味自体も妙な点があった。

「……ブラックボアの肉って、こんなに淡白な味なの?」

 王女という身分ゆえに食べた事はなかったが、一般的に食されている魔物の肉だという事は知っている。
 彼女が食べ慣れていたゴールデンボアには味の濃厚さなどあらゆる点で及ばない事も。 

 だが、それにしてもこの肉の味は妙な気がした。
 味も素っ気もないという程ではないが、まるで水で薄めたかのように味が希薄なのだ。
 これでは本当に腹を満たす役にしか立たない。

(……いえ、それだけ良い物を食べ続けてきたという事……何の役にも立たなかったくせに)

 ラクリアは、味に不満を抱いた理由をそう結論付けた。
 質の良い物しか食べた事が無いから、一般的に食べられている物に不満を抱くのだ、と。
    
 憂いに満ちた息を吐きながら、食事を食べ進める。
 肉自体は淡白な味だが、塩辛い味付けと芋のおかげで不味くはない。
 逃亡中の女が腹を満たすには十分すぎる。

 一抹の虚しさを感じながら、最後の一口に手を伸ばした時、

「おや……? 新米冒険者の方ですか?」

 きょとんとしたような声が掛けられた。

「……ええ。あの、貴女は?」

「これは失敬。拙者は宝蔵院刹那と申します。
ここでよく食料調達をしているのですが、珍しく人の姿が見えたもので気になりまして」

「そうですか……私はラスリナ・エメルキオと申します。ところで、なぜ新米冒険者と?」

 あらかじめ考えておいた偽名を名乗りつつ、訊ねる。

 冒険者らしい服装だとは思うが、それは新米と言われる理由にはならない。
 むしろ、衣装が古びているためそこそこ旅慣れた冒険者に見えるはずだ。

 顔つきなどでそう思われたのだろうか、とラクリアが首を傾げていると、

「こんな森に入る物好きは冒険者ぐらいしかおりません。
新米と判断したのは……失礼ながらその惨状を見れば一目瞭然かと。
冒険者にとっては、手近な魔物を捌いて食料にするのは基本ですから」

 刹那は苦笑しながらラクリアが解体した肉の方に視線を向けた。

 一生懸命頑張った痕跡が見受けられるが、控えめに言っても下手である。

 まず、この魔物はかなり皮が剥ぎ易いというのに、わざわざ切り分けてから皮を剥がしている。 
 皮の剥がし方にも問題があり、皮を剥ぐのではなく肉ごと切り取っている。
 なにより、それらの過程で内臓が大地にぶちまけられている。
 見た目に無惨だし、丁寧に処理すれば美味しく食べられる部分なので非常に勿体無い。
 
 駆け出しの冒険者でもなければ、ここまで凄惨な状況にはならない。

 なぜならば、食用の魔物一匹でも捕らえるには相応の労力が必要になるからだ。
 誰しも苦労して手に入れた食材をわざわざ無駄にするような事はしたくないため、大概の冒険者は真っ先に獲物の捌き方を覚えるのである。
 やっているうちに本職よりも手際が良くなり、廃業した後に肉屋に転身するような者もいるほどだ。  

 刹那の言葉になるほど、とラクリアが頷いていると、
 
「よろしければ、正しい捌き方をお見せしましょうか?
丁度そこにもう一匹いるようですの――でっ!」

 言葉を言い切る前に、刹那の姿が霞んだ。

 一瞬の間を置いて風が起き、周囲の木の葉を散らす。
 直後ドサ、という音と同時に樹の影で息を殺していたブラックボアの首が落ちた。
 やや遅れて首から鮮血が吹き出し、大地を赤く染めていく。
 そのまま手に持っていたロープで近くの樹に吊り下げて血抜きを行う。
 
 あまりにも手慣れた電光石火の屠殺と流れるような手際に、ラクリアは思わず目を見開いた。
  
「あ、あの……随分、凄腕のようですが……高名な冒険者の方なのですか?」

「少し前に廃業していますし、全く無名でしたが……まあ、一応冒険者の端くれではありました。
ところでどうしましょう? どうせこの場で捌くつもりですし、軽く解説いたしましょうか?」

「あ、はい。是非お願いします」   

 ラクリアが素直に頷き頭を下げると、刹那は丁寧に解説を始めた。

 手際良く解体を進めながらではあるが、作業に支障が出ない範囲でゆっくりと。
 皮の剥ぎ方、肉の切り分け方、内臓の血抜きの処理、懇切丁寧とはいかないまでも、
真似できる程度には分かり易く教えている。

 やがて解説が終わると、ラクリアは感謝を込めて再び頭を下げた。

「ありがとうございました。次にブラックボアを仕留めたら、その通りにやってみます」

「大概の魔物は同じような捌き方で大丈夫ですから、ブラックボアにこだわる必要はありませんよ。
それと、ブラックボアに限って言えば仕留め立ては味が淡白で美味しくありません。
拙者の経験上では肉を袋に入れて三日程持ち歩いていると食べ頃になります。
別物と言っていいほど変わりますので、余裕があれば是非お試しを」

「はい。何から何まで本当にありがとうございます」

「御気になさらず。
それと、ここからさらに奥へ進みますとエンペラーカウやシルバーウルフの生息域になりますので、行かれない事をお勧めします。
では、これにて失礼」

 一礼すると、刹那は捌いた肉が入った袋を担いで走り去っていった。
 疾風の如き速度に加え、見事な体捌きで障害物を避けているため、瞬く間に見えなくなる。

(――――凄い速い。ノーブルウルフ程度なら追い抜いちゃいそう)

 刹那が消えて行った方向を眺めながら、ラクリアは目を丸くした。

 流石にフェンに勝てるほどではなかろうが、尋常な速度ではない。
 あの速度なら体当たりするだけでも並の魔物はひとたまりもないだろう。
 先程のブラックボアを仕留めた手並みといい、凄まじい武人である。

(謙遜にしても、あれで無名なんて……冒険者って凄い)

 世の中は凄い人で溢れているのだな、と感心する。

 無論、事実は違う。
 
 確かに刹那は無名の冒険者だったが、戦闘能力という一点においては間違いなく上位十指に入っていた人物だ。
 野心が無い上に運もなく、ついでに御人好しな面もあるために全く名前が売れなかったという非常に珍しい例なのである。
 
 そんな勘違いをしたまま切り分けた肉を袋に放り込んでいると、フェンが戻ってきた。
 腹が膨れて満足したのか、心なしか喜んでいるように見える。
 
「お帰りなさい。さて……そろそろ御祖父様達から教えられた場所を探さないと。
他の場所も行かないといけないし……それに町にも行ってお父様達の情報も集めないと。もしまだ生きているのなら――」

 世間知らずの王女とは思えない迫力を漂わせ、ラクリアは母国の方を睨み付けた。   
   


















  
 
  













 シュッツブルグ史上最高の冒険者と謳われる老人、オーガスト・フランベルは憂鬱だった。

 ルクガイアとの戦争はおそらく史上最短時間で終戦した。それ自体は良い事だ。
 この国内に被害はなかったし、開戦理由と今までの環境、そして滅ぼした両国の性質を考えれば旧ルクガイアの民も豊かに暮らせるようになるだろう。

 問題は、あまりにも上手くいきすぎている事だ。

 往々にして大きな策略が順調に進んでいる時ほど、陰で予想外の事態が発生しているものだ。
 今回に関して言えば、未だ王族が処刑されたという報が出ていない事にきな臭さを感じる。

 そして、王族の隠し財宝の在処を吐かせるために厳しい拷問が行われている最中だとか、
最上位魔法で跡形もなく消し去ってしまったため死体が無く、勘繰られるのを避けるために似たような顔の死体を探しているとか、
真偽の定かでない噂は数多く流れている割には、王族を取り逃がしたという噂はあまり流れていない。
 こういう場合、不安を煽る話ほど流行り易いものだというのに。

 ――――情報統制が行われている可能性は、否定しきれない。

 もしそうなら、今までの経験上確実にもう一波乱か二波乱起こる。   
 たかが引退した冒険者程度に出来る事など多くはないが、心構えはしておかなければならないだろう。 

 それが杞憂である事を祈りながら――――オーガストは本日三個目の酒樽を空にした。

「おーい、オーガスト爺さん。昼間っから飲むのはいいけど、樽は片してくれよー?」

「分かっとるから心配はいらんぞー」

 手を振り、了承の意思をアピールする。

 オーガストは深刻な事を考えている時ほど人前で、それも明るいうちから酒を飲む。
 深い悩みは往々にして気分が滅入る為、暗い方向に思考を偏らせないための知恵である。 
 なによりも、これなら滅多に誰かに心配されるような事は無いため、落ち着いて思索に集中できる。

 が、それを知っている者からすれば一目瞭然の行動でもある。
 
「オーガスト」

「なんじゃ、ハロルドか。何か用かの?」

 酒瓶片手にどっかりと空いた酒樽に腰かけた親友――ハロルド・ゲーリッツに嫌そうな目を向ける。
 
 この町の創始者の一人でもあるハロルドは、現役を退いた今でさえ築いた人脈とその能力ゆえにこの国の根深い所に関わっている。
 終戦直後である今は間違いなく数多いる後進から助言を求められたりなどで多忙なはずだし、趣味でやっている花屋の仕事もある。
 
 こんな真昼間からオーガストに接触するからには、相応の理由があるはずだった。
 とても愉快とは言えないような理由が。
 
「ふん、どうせ感づいとるんじゃろう?」

「やはり逃がしたのかの?」

「うむ、それも三人全員じゃ。シェリス様の事じゃし、最終的には上手く片付けなさると思うんじゃが、
昨日念の為にわしらの情報網も使わせてほしいと頼みにいらしたんでの」

「……国内に入っている可能性も否定できんような事が起きたわけか。
まったく、嫌な考えほど当たるもんじゃの」

 酒樽を傾け、嘆く。

 もし国内に侵入しているのなら、九割方派手な事件が起きる。
 大きく精緻な計画が実行されている時ほど予想外の事が起こりやすく、
それが引き起こす事態の規模もまた大きくなりやすいのだ。

 実際、似たようなケースで何度か戦争の真っ只中に放り込まれた経験があるため、オーガストは楽観できなかった。 

「その通りじゃな。で、相談なんじゃが――」

「仕事中の酒代、それとこの町の娼館のフリーパス一月分で手を打ってやるわい。
ついでに、判別所の職員にも適当に言い含めといてくれ。わしはごまかすの苦手じゃからな」

 ハロルドが言葉を紡ぎ切る前に、オーガストは条件を突きつけた。
 
 ハロルドとオーガストの付き合いはかれこれ五十年以上にも及ぶ。
 今回のような場合に何を頼んでくるのかなど、聞くまでもなかった。

「良いのか? 解決するまでじゃぞ?」

「分かっておる。わしとしてもこの町が潰れたら、色々不便じゃからな。
酒も手に入りにくくなるし、娼館にいたってはかなり遠くまで足を延ばさねばならなくなる。
そのあたりの弱味を考慮したうえでの特別サービスじゃ」

 ぐい、と酒樽を傾け、また一つ空にする。

 酒量が多かったのか、その頬は微かに赤味を帯びている。
 普段は五樽空にしても平然としているオーガストにしては、珍しいが。
 
「ふん、捻くれ爺めが」

「お互い様じゃろ――む?」

 話が一段落したところで、オーガストは視界の端に見覚えのある人影を捉えた。
 相手側も丁度それに気づいたらしく、三人揃って彼らの方へ向いた。

 丁度物騒な話も終わったところなので、二人は笑いながら三人を手招きした。
   
「お久しぶりです、お二人共。なかなか粋な事をやっておられますね」

 二人の手元にある酒を見ながら、海人は苦笑した。

「終戦祝いにちょいとな。そちらのお嬢さん方は?」

 先程までの会話の名残など微塵も見せず、ハロルドは柔和に問いかけた。

 それに対し刹那は丁寧に、雫は元気よく自己紹介をし、ハロルドもまた穏やかに名乗り返した。
 互いの紹介が終わったところで、海人が口を開く。  

「しかし、今日はいつにも増して賑やかですね」

 周囲を見回し、小さく笑う。

 普段から賑やかなカナールの町だが、今日は一際騒がしい。
 町のあちこちに大食い大会や飲み比べ大会、少し変わったところでは編み物競争などもやっている。
 
 ただの気分転換のつもりだったが、思いがけず楽しめそうであった。

「元々終戦祝いに色々企画はあったんじゃが、色々手間取って昨日ようやく準備が終わったんじゃ。
ちなみに今日の目玉は四時から中央広場で始まる食べ比べ大会じゃ。
町の人気店二十店舗それぞれの名物料理が一通り食べられて参加費三千ルン。
しかも一店舗につき三回まで御代わりできるという大サービスじゃぞ」

「……あの、こう言っては何ですが、かなり赤字が出るのでは?」

 意外に金銭にうるさい刹那が、おずおずと尋ねた。

 店の看板とも言える名物料理は、それなりに原価もかかっている。
 二十店舗それぞれで御代わり三回までとなると、かなり豪気だ。
 少食の者も参加するだろうとはいえ、間違いなく赤字が出る。 

「半分お祭りじゃからの。赤字は出るじゃろうが、その分は町が負担する事になっとる。
しばらくは服屋などでも期間限定の服を売ってたりもするから、是非楽し――」

 そこまで言いかけ、ハロルドは思わず息を呑んだ。
 
 先程まで思考の外に追いやっていたが、ある意味ではオーガストへの頼みよりも深刻な問題が残っていた事を思い出した為に。 
 人が聞けばその程度の事、と一笑に付すかもしれないが、その問題はハロルドにとっては深刻極まりない。
 万が一解決できなければ、世を儚んで自害したくなるほどの大問題である。
 
 だが――――それを高確率で解決できそうな人材が、目の前にいた。

「ハロルド老、どうかなさいましたか?」

「う、うむ……カイト殿、ちっと頼みがあるんじゃが……ファニルの事は覚えておるよな?」 

「ええ、貴方のお孫さんでしょう? かなり快活な良い子だったかと。確か、九歳でしたか」 

「うむ。実はここしばらくいろいろ忙しかったもんで、あの子と一緒に服を買いに行く約束を五連続ですっぽかしてしまってのう……」

「……ハロルド老、失礼ながら出来ない約束はするものではないかと。
自分が忙しい身なのは分かりきっている事でしょう?」

 海人は冷たい目でハロルドを見据えた。

 一度約束を破っただけならばハロルドは忙しいのだから仕方ないと言えるが、
五連続ですっぽかしたという事は、ファニルはどんな形にせよ四回連続で約束を破られても祖父を許したという事だ。
 まだ十歳にもならない少女だというのに、実に我慢強い。
   
 そして、それだけ忍耐力のある子供なら、ちゃんと言い聞かせれば延期ぐらいは許容するはずである。
 所詮推測ではあるが、ハロルドの態度を見る限りでは見栄を張って大丈夫と言い続け、結局破ってしまった可能性が高い。
 
 刹那と雫も同じ結論に至ったのか、ハロルドに向ける視線の温度が若干下がっていた。 
 
「それは分かっとるんじゃが、どうにか調整したと思ったら急に外せない用事が入る、というのの繰り返しだったものでな……。
おかげですっかりむくれて口をきいてくれなくなっちまったんじゃ」
 
「それはお気の毒ですが……それで、私に何をしろと?」

「うむ、わしの代わりに買い物に連れて行ってやってくれんかと思ってな。
カイト殿にはかなり懐いておったし、色々な人と会うのが好きな子じゃから、
そちらのお嬢さん方と会っても気分が和らぐはずじゃ。で、程良く気分が和らいだところで、許しを請おうかと」

「たかが孫一人に、情けない奴じゃのう」

 やれやれ、とオーガストが肩を竦める。

 普段は老いてなお多大な影響力を振るう商人だというのに、孫が絡むと途端に情けなくなる。
 仕事中のハロルドしか知らない者が見たら、別人だと断言しかねない程に。

 が、ハロルド本人はそんな事は微塵も気にしていなかった。 

「なんとでも言え。またファニルと会話するためなら悪魔に魂だって売ってくれるわ」

「やれやれ……まあ、単に食べ歩いたりよりは気分転換になるか。君らは異論あるか?」

 仕方なさそうに、海人は刹那達に話を向けた。
 海人自身は引き受けるのはやぶさかではないが、そうすれば刹那達も付き合わされる事になってしまうのだ。

「拙者としてはありません。ハロルド殿はともかく、そのお孫さんは気の毒だと思いますので」

「あたしもないでーす」

 二人のあっさりとした返事を聞き、海人は条件付きで引き受ける事にした。
 
「ならば……結果に責任は持てない、という事でもよろしければ引き受けましょう」

「充分じゃ! ささ、では早速あの子の所へ案内しよう」

 気が変わらない内に、と言わんばかりにハロルドは手早く案内を始めた。
  
















































 一方その頃、海人の屋敷の前では二人の女性が立ち尽くしていた。

 片方はシンプルながらも質の良いライトグリーンのドレスに身を包んだ女性。
 彼女は目を真ん丸に見開き、口を小さくパクパクと開閉させている。
 常に優雅さを忘れないよう心掛けている彼女にしては珍しく、呆然自失といった様子だった。

 もう片方は質素な紺のエプロンドレスに身を包んだ女性。
 彼女は冷たい目で主の背を見つめてはいるものの、パッと見は落ち着いた様子だった。
 もっとも、見る者が見ればその絶世の美貌がかすかに引き攣っている事が分かるだろうが。
 
 そんな二人の目の前にあるのは、呼び鈴代わりの銅鑼。
 その横には御用の方はこれを鳴らしてください、と記された看板がある。
 珍しくはあるが、二人にとっては見慣れた光景だ。

 ――その上に『ただいま外出中』と書かれた板さえかかっていなければ。
   
 ライトグリーンのドレスを着た女性――シェリスは、まず目をごしごしと擦った。
 見間違いかもしれない、と思ったのであろう。

 が、それでも目の前の悪夢のような光景は変わらない。
 
 仕方なく、シェリスは袖を捲り、自分の二の腕を思いっきり抓った。
 夢かもしれない、とでも思ったのであろう。
 混乱の真っ最中にありながらも外から見えない部分を選ぶ辺り、大した女性である。
 
 それでも目の前の光景が全く変化を見せない事を確認し、シェリスは最後に天を見上げた。  

「――――空が、綺麗ね」

 柔らかく微笑み、空の美しさを称える。

 本当に、透き通るように澄み渡った青空であった。
 僅かに残った雲がアクセントとして働き、その美しさを際立たせている。

 眺めていると絵具を持ってこなかった事が悔やまれてくるが、
同時にこの場限りの美しさだからこそなお良いのだろうとも思う。
 忙しなく移ろいゆくこの世界のほんの一瞬の光景だからこそ、尊いのだろうと。

 とはいえ、儚い光景でも記憶に留めておきたいと思うのが人間の性。
 
 せめて少し離れた場所に見える大きな雲が流れてくるまで、
この光景を楽しもうと屋敷の外壁に背を預けようとしたところで、 
 
「シェリス様。現実逃避したくなる気持ちは分かりますが、早々に屋敷に帰還すべきかと存じます。
いつ戻られるかも分からない状況で時間を潰せるほど暇ではないはずです」

 容赦の無い部下――ローラ・クリスティアの制止がかかった。

「分かってるわよっ! あああっ!? なんで!? どうして今日に限って!?
今までここを訪ねて空振りした事なんてなかったのに!」

 思いっきり頭を抱え、絶叫する。

 悪いのは自分。それは分かっている。
 予約を取らないという事は、出向いた先の相手が不在というリスクも抱える事なのだから。
 礼儀としていかなる相手でも会う時は極力予約を取り続けていたため忘れかけてはいたが、完全に忘れてはいない。
 
 だが、それでもなぜだ、と思わずにはいられない。

 海人という男は揉め事を嫌うがゆえに、基本的に屋敷に引きこもっている。
 シェリスが知る限り人付き合いもほとんどないため、出かけなければならない用事もないはずだ。 
 おそらく不在の理由は気分転換がてら町に買い出しと言ったところだろうが、
それにしたって確率が高いとは思えない。
 
 つまり、かなり低確率な可能性に当たってしまった事になる。
 よりにもよって、今までの人生の中で一番忙しい時に。

 こうなると、もはや自分以外に恨むべきは天しかない。

 ――恨んだところで現状は変わらないが。
 
「ご、午前中必死で働いてどうにか時間作ったのに……む、無駄、無駄足……」

 どうしようもない悲嘆を声に滲ませ、シェリスはがっくりと肩を落とした。

 ルクガイアの国王達を取り逃がすというアクシデントによって生じた仕事を必死で処理し、
その間も自分でなければ処理できない他の書類を捌き続け、それだけでも大変な作業だというのに、
今日ここに来る時間を作るためだけにその速度を限界まで加速させたのだ。

 にもかかわらず、やっとの思いで強引に作り出した時間は無駄足に終わった。
 用意した交渉条件については後日の交渉に回せるが、その交渉を行う為にまた時間を作らねばならない。
  
 今後を考えただけでも、意識が遠くなりそうだった。 

「シェリス様、物は考えようです。確かに無駄足でしたが、交渉に当てるはずであった時間は空いたままです。
多少息抜きの時間が出来たと考えれば、決して無駄ではなかったかと存じます」

「……それもそうね。帰ってお茶にしましょうか」

「はい。脇目も振らず全速力で帰るといたしましょう」

 普段と変わらぬ無表情のまま、ローラは淡々と告げる。
 何気ない言葉だったが、シェリスは何故か怯えたかのように硬直した。

「……全速力?」

 ぎこちなく、ゆっくりとローラに首を向ける。

 ローラの全速力。かつて体験したそれは、非常に恐ろしいものだった。

 それは、確かに速い。
 普段急ぐ際にローラの背に乗って走る時も速いが、その倍以上の速度だった。
 速度のみを追求するならば、それ以上の選択肢はありえないだろう。
 
 ――だが、乗り心地は最悪だ。

 その凄まじい速度ゆえに上手く風の魔法で風圧を軽減しなければしがみつき続ける事さえ難しく、
下手をすればカーブの時の風圧で首が折れかねない。
 時折出てくる魔物や他の動物を避けるために飛び跳ねたりもするため、上下の揺さぶりも油断はできず、
その際には思いっきりしがみつかなければ振り落とされてしまう。
 移動手段の一環であるはずなのに、生死を問わない荒行に等しいのである。
 
 事実、以前シェリスが体験した際には目的地に到着すると同時に倒れ、
もう二度とローラの全速力には乗らないと宣言した。

 だというのに、ローラは全速力を出すと言った。 
 目の前の完璧超人が主の言葉を忘れるような事はありえないというのに。 

「はい。骨休めの時間は一秒でも長い方が良いと思いますので」

「ロ、ローラ? もしかしなくても怒ってる?」

 無表情なままの従者から発せられる怒気に、思わず後退る。

 考えてみれば、ローラが怒っていたとしても不思議な事は何一つない。

 面倒な仕事をどうにか片づけて昨晩遅くに帰ってきたかと思えば、翌日シェリスが出かけるからと翌朝の仕事を凝縮する羽目になり、いざ辿り着いてみれば予約を取らなかったせいで無駄足。
 これだけでも怒るには十分な理由だというのに、常日頃からのシェリスを上回る仕事量、屋敷で最も短い睡眠時間、最も少ない休暇という地獄のような労働環境が加わる。

 しかも予約を取らなかった理由は、部下達にこれ以上の負担をかけるわけにはいかないという理由である。
 彼女らはローラの倍近い睡眠時間を約束されているというのに。

 ローラでなくとも、これで怒らない人間はまずいないだろう。

 危険を感じたシェリスが宥める言葉を考えるのも束の間、 

「身に覚えがあるのでしたら、そうかもしれません。
では、早速参りましょう」

 ローラは主に反応する間も与えず、腕を掴んで強引に背負った。
 
 脳裏に加速魔法術式を浮かべ、肉体強化を限度まで高め、思考を走る事に集中させる。
 かつてない集中力。これならば、今までの最高記録を更新できるかもしれない。

 唇を小さく舐め、ローラは呼吸を整えた。 
 
「待って!? 私が悪かぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁっ!?」

 言葉の尾を悲鳴に変えながら、シェリスは自分の屋敷へとすっ飛んで行った。
  



 

テーマ:自作連載小説 - ジャンル:小説・文学

コメント

更新お疲れ様です。

夢の中とはいえ、海人の嫁のエミリアさん登場。流石に海人と結婚したツワモノという所か、なかなか個性的でいらっしゃるw

雫、結構歌とか上手いのかな?それとも演奏だけで歌はダメってパターンもあるけど…。

ラクリア王女、世間ずれしているかと思えば逆に逞しくもあり、まだ読者としてはどんな人物かは掴めていない感じです、自分の読解力がたりないのかもしれませんが…。未だに城から逃げおおせた手段は謎ですが、彼女が連れているフェンが鍵を握っていそうですね。神速とはどれほどなのやら。父親の情報、何か生きていて欲しいのか死んでいて欲しいのか…親子関係どうなんだろう。

刹那、ラクリアと遭遇、スゲー確率なのかな?ラクリアにしてみれば逃亡王女だと知られていなかったのはついていると見るべきでしょうが、刹那としてはどうなのかは微妙か。まあシェリスがあとでこの事を知ったら「仕事をほっぽり出してでも情報を海人達に先に伝えておくべきだった」と後悔しそうですが。

オーガスト老、さすがは歴戦の猛者、「戦争の結果がイマイチ上手くいっていないかも」と疑っていますね。まあ実際にその後にハロルドからの依頼でその考えの正しさが立証されるワケですが、報酬の方は彼らしいですね。

海人はハロルドから孫の事を頼まれ、その事自体は大した事無いのかも知れないが、結果的にはこれのせいでデッカイ事にまきこまれそうですね。巻き込まれ体質っポイから。

シェリス、アポイントを取らなかった事が裏目に…ローラ女史がお怒りのご様子。
「私が悪かぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁっ」
ローラに追い抜かれるとシェリスの声でドップラー効果が実感できそうですね。
[2011/05/02 00:01] URL | 戸次 #Wjzbkqqg [ 編集 ]


しぇりすさん……(汗)まあ何時も道理か(笑)海人さんの奥さんが初めて登場ですねこれからも楽しみに待ってます
[2011/05/02 00:04] URL | さとやん #6x2ZnSGE [ 編集 ]


更新お疲れ様です。
奥さんが凄い人としか言えないくらいにインパクトありましたw
海人にとっては、最強・最愛・最高の嫁さんだと胸を張って言えるんでしょう。
うーむ、海人が再婚考えたくなるほどの出来事がそう簡単に出来るのかな?
よっぽど強烈な出来事でも無い限り、恋が始まるとは思えませんね。
どっちかというと何年もかかって、いつのまにやら傍にいるのが当たり前というような状況でくっついたというほうが自然に見える気がします。
とはいっても私の個人的感想による意見なので、作者さんが書く物語を楽しませていただきます。
それでは次の更新を楽しみにしています。
[2011/05/02 00:04] URL | 光 #- [ 編集 ]


ローラさんの怒りというか不機嫌の中にはカイトに会えなかったっていうのもあったんじゃないか、という妄想が絶好調なんです

亡国の姫とカイトが直接関わるのか間接的に関わるのかどっちなんでしょうか。
[2011/05/02 01:33] URL | はいで #JalddpaA [ 編集 ]


加速魔法術式はやっぱり風属性ですかね?
一瞬「え?時間?」とか思っちゃいましたw
しかし、王女様…王様達助けるんじゃなくて、もしかして逆のことしようとしてる?
[2011/05/02 02:58] URL | トマト #mQop/nM. [ 編集 ]


エミリアさん、なんかすごいですね。
この夫にしてこの妻ありなかなかに破天荒な人です。

カイトは王女とニアミス?しましたね。
このまま王女は刹那の弟子になって一流の冒険者になるでしょう・・・・・・きっと
[2011/05/02 22:00] URL | 煉恋々 #h2YGRmSs [ 編集 ]


きっと王女は海斗の妻に激似であるに一票wwww
問題は妻に似ていること程度で不動の海斗を揺るがせられるかが未知数
[2011/05/03 00:45] URL | 港 #- [ 編集 ]


はじめまして

先ほど、今ある分を全部読み終わりました。とても面白かったです。

登場人物のまとめとかはありますか?だんだん人物が増えてきているので作ってもらえるとありがたいです。

[2011/05/15 14:45] URL | はるきよ #- [ 編集 ]


エミリヤさんって何人?
[2013/04/22 23:10] URL | #- [ 編集 ]


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