ラノベを目指してみよう
グース・カピーこと九重十造が人様を楽しませられるレベルの文章を目指して色々書き連ねる場所です。          軽く楽しく読める話を書ければいいなと思ってます。
白衣の英雄94
 シュッツブルグ北部に築かれた野営地。
 そこのテントの一つで、エアウォリアーズ三隊長による会談が開かれていた。

「……じゃ、とりあえずの方針はこれで決定で良いっすね?」

「本音を言えばもうちょい余裕が欲しいけど、こっちの数の少なさ補うにはどうしても手が足りないものね」

「だな。ま、余裕がねぇなら作りゃいいだけだろ」

 やれやれとばかりに肩を竦めるルミナスの愚痴を、ケルヴィンが不敵に笑い飛ばす。

 単なる楽観にも聞こえるが、必ずしもそうではない。
 アンリの戦略は基本的に、例え全員が不調でも大きな問題が起きない事を前提に組んでいる。
 その為絶好調時は当然ながら、並程度の調子の時でも相応の余裕が生まれるのだ。
 
 ゆえに、各々がそれぞれ気張れば余裕は作れる可能性が高い。
 相手も相当な軍略家だという事なので油断はできないが、過度に緊張する事はないはずだ。

 さらに言えば――――今回は団員の士気も非常に高まっている。

 ルミナスの影に隠れがちだが、シリルもあれで人望厚い女性だ。
 仕事で危険を冒して仲間を助けるのは言うまでもなく、仕事外でも必要であれば手を貸している。
 他にもデートの際に必要な高級レストランでの作法や、服に着られないお洒落の仕方などでお世話になった団員も非常に多いし、
博打にのめりこんで無一文になるところを通りかかったシリルのドロップキックで諭されたという者や、
場の雰囲気に流され思わず不必要な高級品を買おうとしたところをシリルの冷たい一言で思いとどまったという者もいる。
 シリルのそういった行為に部隊の垣根はなく、団員の大半が何らかの形で一度は世話になっているのだ。
 かくいうケルヴィンも、かつてシリルに食事作法で散々世話になった身である。

 そんな彼女が狙われているというのだから、元よりやる気は十分。
 しかもルミナス達がここに来る前にアンリがシリルの兄の事を説明した為、それがさらに倍増した。
 今の士気なら、余裕を作れる可能性は非常に高い。 

「戦力分布考えると気張っても余裕作んのはちっと厳しいんっすよねぇ……ま、思った以上にシリルさん達の準備が良かったんで、
当初の見立てよりははるかに良い状況になってんすけどね」

「てーか、ありゃ一種の反則だろ。あの矢があんだけありゃ、シリルなら騎士団幾つか壊滅させかねねぇだろ」


 ケルヴィンは、呆れ交じりに苦笑した。

 シリル愛用の矢は通常の矢に比べ重く、威力が高い。
 使うには強力な弓と相応の膂力が必要だが、使いこなせればそれに見合った結果を生む。
 生半可な鎧ではまず確実にぶち抜かれ、並の戦士なら肉体強化していてもそのまま体を射抜かれる。
 ケルヴィンですら距離次第では肉体強化のみで弾く自信はあるが、それでも試す勇気はないと言わしめる程だ。
 
 普段はコストの問題とシリルの腕なら通常の矢でも十分すぎる殺傷能力を持つ事から一種の切り札的な扱いになっているが、
無制限に放てるのであればシリルは単騎で騎士団とも渡り合いかねない。
 
「概ね同意だけど、あの子の欠点は変わってないわよ?
あの子はあくまで弓兵で、接近されたら危ない事に変わりはないわ」

「それに素手で負けた俺の立場はどうなるって話だが……ま、いいや。
俺らはそろそろ行くぜ。位置からすると、そろそろ移動始めといた方がいいだろうからな」

 地図を片手に、ケルヴィンが立ち上がる。
 
「任せたっすよ。もし余裕があれば、指定した他の箇所も回るように」

「あいよ。よ~し……行くぞてめえらぁぁぁぁっ!」

 テントを出るなり、ケルヴィンは待機していた部下たちに向かって叫ぶ。
 その声量は凄まじく、野営地の入口で見張りをしている者達の体すらもかすかに震わせている。

 直後、それに呼応するかのように第三部隊隊員の雄叫びが響いた。
 彼らは各々の武器を天に突き上げ、大地を震わさんとばかりに声を張り上げている。
 まるで上位ドラゴンが群れを成し怒号を放っているかの如き様相だ。
 
 ケルヴィンは部下たちの戦意に満足げに頷くと、貫録を感じさせる歩き方で部下を従え野営地を去っていった。

「ふふ、相変わらず第三は元気ね……んで、実際どう思うわけ、この布陣」

「現状での最適解とは自負してるっすけど、相手の仕込みに要警戒っすね。
それも見越しての布陣っすけど、数や位置によっては厳しくなるっす」

「情報集めきれてる自信ないわけ?」

「御世辞にも。事実『傀儡師』から渡された資料の三割近くが把握できてなかったんで」

「……そらまた怖い話ね。考えたかないけど、向こうがしくじる可能性は?」

 冷や汗を流しながら、ルミナスは尋ねる。

 アンリの情報収集能力は、一傭兵団の人間としては異常なレベルだ。
 本人は意にも介してないらしいが、これまで幾度となく国家の諜報部に破格の待遇で誘われているらしい。

 そんな彼女が、シェリスの掴んでいた情報の三割近くも把握できていなかった。
 
 これはアンリの能力不足や怠慢ではなく、シェリスだからこそそれだけの情報を集められたと捉えるべきだ。
 シェリスの持つ極めて広大かつ密な情報網、その主領域だからこそ集められたのだろう。

 そこまでの芸当を成し遂げる情報戦能力となると、隠し玉は警戒しなければならない。
 最悪、これまで掴んでいる手札全てが捨て札という可能性もある。

 となると、当然シェリス達がしくじる可能性も出てきてしまう。
 いかに個々の力が優れているとはいえ、シェリスの屋敷の頭数は少ない。
 うまく誘導されれば、空白を作られ突破される恐れもある。
 
 緊張感漂う表情のルミナスに、アンリもまた真面目な顔で答えた。 

「確率としてはこちらより上、と言いたいところっすけど、あそこも隠し玉がどれぐらいあるか分からないですし、
指揮官の能力は自分より上と見て間違いないんで、多分こっちより低いっすね」

 言い終えると、アンリは難しい顔で唸った。

 本来なら、戦力は第一部隊の大半とその他も多少欠けているとはいえ、エアウォリアーズの方が上なはずだ。
 他にもやる事が山のようにあるシェリスの部下が全員出動できるはずもないし、
そもそもいくら強いとはいっても彼女らは戦闘が本職というわけではない。
 事実上文官武官を兼任し、それを高いレベルで実現させているような精鋭集団だが、
ほぼ完全な戦闘の専門家集団、それもトップレベルであるエアウォリアーズに勝てるはずがないのだ。
  
 なのだが――――断言もできない。

 これまでアンリがあの屋敷について集めた情報。
 それらは全てまとめて総合的に分析しているのだが、どうにも危険な香りがぷんぷんと漂っている。
 ローラ・クリスティアという世界でも五指に入りそうな化物を別にしても、だ。

「……この状況で役に立つ隠し玉がそんなに隠れてるっての?」

「よーやくほぼ確信出来た情報一つだけで、頭掻きむしりたくなるレベルなんっすよ。
というか、他の憶測が全部当たってたらこの国の戦力はとんでもないっすね。色んな意味で」

 若干投げやりにぼやく。

 少し前の話ではあるが、地道な情報収集の甲斐あって一つだけ確度の高い情報が入ってきた。
 あの屋敷に古くから務めている者達、その中にとんでもない連中が混ざっているというのだ。
 その功績の大半が捏造で実際はただの旗頭、現在ではそんな説が主流になるほどに色々とかっとんだ三人組が。

 正直情報が足りずまだその正体を断言はできないし、彼女らの逸話からして実績も誇張はされていると思うのだが、
もしアンリの見立て通りの正体であれば、それでもイカレた戦力と言わざるをえない。

 なにせ――――十代の頃にたった三人で騎士団一つ殲滅している事だけは確実なのだ。
 
「ふーん……ちなみに、詳細を教える気は?」

「現状ではないっすね。もし仕事で対峙した場合、こちらが知っていると確信されてたら勝率が減るんで。
ルミナスさんが漏らすとは思わないっすけど、知る者が少ないに越した事はないっす」

「そっか、ならいいわ」

「てーか、それでも不安は残るんで、是非彼の力を借りたいんっすけど?」

「言ったでしょ。あそこは用意しといた武器の保管場所。これだけでも十分世話になってるでしょうが」

 未練がましく話を向けてきたアンリを、にべもなく切り捨てる。
 気持ちはよく分かるけど、と内心同意しつつも。

「そりゃそうですけど……彼自身は何か言ってなかったんっすか?
友人の窮状見過ごすタイプには見えなかったんすけど」

「あんたの見立ては正しいわよ。この程度の助力なのはシリルが手伝い拒んだからだもの」

「……今回ガチでヤバいんっすけどねぇ……ま、理由考えれば仕方ないっすか」

 ルミナスの言葉に一瞬目を見開きつつも、アンリはすぐ諦めたかのように肩を落とした。

 今回シリルが戦う動機は、何も自衛ではない。
 動機の根本にあるのは、亡き兄への仕打ちに対する憤怒。
 そしてそこから生まれる敵への嫌悪感だ。

 だからこそ、友人を巻き込むなど許容するはずがない。
 まして、戦力的にはともかく分類は一般人である者を。
 心情的には、本来ならエアウォリアーズも関わらせたくなかったはずだ。 

「ま、本気でヤバかったら泣きついてこいって言ってたから、頼みゃ即手ぇ貸してくれるわよ。
どっちかっつーと手出ししたいのを無理に我慢してもらってるから」

「おや、そりゃ朗報っすね」

 ルミナスの言葉に、アンリが笑みを浮かべる。

 伝達時間を考えると期待していたほどの手札ではなくなったが、
それでもあの屋敷の主従が出張って来てくれれば勝率は大きく上がるのだ。
 こちらと協調してくれるのが理想的だが、彼らが勝手に暴れてくれるだけでも十分すぎる。
 
 騎獣としてプチドラゴンを抱えているというのは、今回のような場合においてはそれほどまでに絶大なのだ。  

「んじゃ、私もシリル連れてそろそろ行くわね。こっちは早めに片付けて問題ないのも多いし」

「ええ、御武運を」
 
 テントを出るルミナスを笑顔で見送ると、アンリはひっそりと溜息を吐いた。

「当初の予定よりゃはるかにいいんっすけど……やっぱしくったっすねぇ。
まさか、折角打った手をシリルさんが潰しにくるとは」

「欠片も潰せちゃいないんで御安心を~♪」

 突如背後から響いた軽い声に、アンリの背筋が凍りついた。

 動揺を押し殺しながらゆっくり振り返ると、見覚えのある少女がいた。
 護衛という割には表情が柔らかく、良い意味で堅苦しさがなかったのを覚えている。
 見たところ速度重視タイプの達人だが総合能力なら自分が上、そう思っていた相手だ。

 甘すぎた見立てを痛感しながら、アンリはゆっくりと口を開く。
  
「……いつからっすか?」

「会議始まった時からずっとです。あ、これうちの御主人様から預かった手紙ですんで読んでください」

 恐るべき事実を語りながら、雫は手に持っていた手紙をアンリに手渡した。
 アンリはすぐさま手紙を開封すると。中身に目を通し始める。

「……なるほど。思った通り、いやそれ以上に人情に厚い方のようっすね。
なかなかに洒落っ気もある、と。シリルさんが読んだら憤慨しそうっすけど」

 読み終えた手紙を片手に、苦笑する。

 手紙の内容は至極単純。
 とりあえず戦力を一人追加する事と、用事が済んだら自分達も動くという事。
 ついでに、それがシリルにバレた時の伝言だ。
 伝言の方は本人に伝えたらさぞかし愉快な反応を見せてくれるだろう。

「ええ、とりあえずこっちは任せて下さい。これでも伏兵としての性能はそこそこ高いんで。
それじゃ、失礼しま~す」

 後ろ手を振りながら、雫は堂々とテントを正面から出ていった。
 軽やかに、しかし外にいる歴戦の戦士達の誰一人にも気づかれる事無く。

(……そこそこ? 性質の悪い冗談っすね)

 ふう、と溜まっていた息を一気に吐き出す。

 先程まで、アンリは雫が背後にいる事に全く気付いていなかった。
 それどころか、彼女の言葉を信じるなら会議中でピリピリしていたはずの者達が気付けなかったのだ。
 最強とも称される傭兵団の隊長が、誰一人として。
 
 そして、見たところあの少女は基本戦闘力自体も非常に高い。
 あのレベルとなると、エアウォリアーズでもトップに近い上位クラス。
 シリルを除けば各隊の副隊長は確実に超えている。

 伏兵としての能力ならまず間違いなく――――世界トップレベルだ。  

「でもま、とりあえずは一安心っすね。一番固めるべき所は固められたっと」

 魔法で手紙を燃やしながら、アンリは不敵に微笑む。

 今回は敵の数に押し切られる事態を危惧して戦力を細かく分散しているのだが、
それゆえに一カ所あたりの戦力低下が馬鹿にならない。

 特にルミナスとシリルはその危険度にもかかわらず、たった二人で組ませている。
 それがどれほどの危険を孕んでいるのかは、重々承知の上で。

 その最大の理由は、あの二人が組んだ時の連携についていける人間がほとんどいないからだ。

 あの二人の連携は各々のスペックを存分に生かしながら、相方の穴を着実に潰すどころか、
それを罠として使ってしまうほどの域に達している。
 互いの力と思考を完璧に把握しているが故の絶技だが、それゆえに連携に付いていける者は、
エアウォリアーズでも隊長格以上を除けば第一部隊隊員のみ。
 それ以外の者では実力、あるいは意思の汲み取りの不足でかえって足を引っ張る。

 なのだが、困った事に現在この国に第一部隊隊員はいない。
 アンリとケルヴィンもより多くの敵を少数で始末する為、配置は固定されてしまう。

 あの二人なら多少の計算外はどうにでも処理するとは思うのだが、やはり不安は大きかった。

 が、雫ならば二人を助けられる可能性が極めて高い。
 共闘できずとも、あの気配消し能力で裏に回って二人とは逆方向から奇襲をかけるだけで敵は大混乱に陥る。
 極端な話、中位攻撃魔法を一発撃って逃げてくれるだけでも十分すぎる戦果になるだろう。
  
 保険としては、これ以上望むべくもない。
 そして隠れ潜んでくれるなら、ルミナスとシリルだけを組ませたもう一つの理由にも好都合。
 風向きが一気に良くなった事を確信し、アンリの唇が獰猛に吊り上がった。












 
 一週間後――――刹那はすぐ近くで作業に勤しむ己の主に、改めて戦慄していた。

(ある程度分かっていたつもりだったが……どこまでも、想像が及ばぬ御方だ)

 彼女の視界にあるのは、今日も今日とて研究を進めている主君の姿。
 そして彼の操作によって前方で目まぐるしく変化している空中ディスプレイ群だ。

 その速さは、もはや驚愕を通り越し感動すら覚える次元に達している。 

 なにしろ、内容によっては刹那の動体視力をもってしても一つのディスプレイの動きを追う事すら一苦労。
 実験室での実験模様を映し出しているディスプレイならそれほど難しくはないのだが、
同時進行されている次の実験の為のデータが入力されていく光景などは、刹那でもかなり大変なのだ。
 しかも実験は同時に平均十前後が並行して行われているが、あくまで最終的な実験の数がその程度なだけで、
実験に使用する試作品の製造工程は刹那が把握してるだけでも一つにつき百は越えている。
 それどころか、候補として入力用データを作りはしたものの、後回しにされたり没にされたりしているデータも山のようにある。

 整った設備あればこその速度ではあるのだろうが、こんな芸当ができるのは海人以外には存在しないだろう。
 まして、作業開始日から食事や睡眠などを除けば延々研究を続け、昨日までは速度が上がり続けていたなど誰が信じようか。
 
(そのくせ、拙者に対する気遣いも忘れないのだからなぁ……)

 海人には聞こえない程度にひっそりと、溜息を吐く。

 今の海人の集中力は、想像を絶する域だ。
 本人が言っていた通り、食事時を知らせる為に刹那が軽く声を掛けた程度では気づきもしない。 
 それどころか大声で呼びかけてもまったく聞こえていないらしく、一切動きに淀みが生じないのだ。
 ならばとディスプレイを遮るように立ちはだかってみたが、そうすると別の場所に映し出して作業を続けてしまう。
 
 仕方なしに刹那は、海人を止める時両手で目を塞ぐ事にした。
 流石に視界が完全に閉ざされたら気付くらしく、手を止めてくれるのだ。

 が、それほどの集中力を使用した作業を邪魔されても海人はまったく怒らない。
 不機嫌さの欠片もなく、食事時を知らせてくれた刹那に純粋に感謝を述べてくる。
 それどころか、物でも当たれば気付くし、別にそんな丁寧な止め方をしなくていいとまで言われるぐらいだ。

 そして食事時だが、海人は脳内で思考は続けているらしく時折研究に関する言葉が漏れる。
 それでいながら刹那との会話を生返事ではなくきちんとこなし、
味の感想も軽く欠点を指摘しつつ美点をきっちり褒めてくれるのだ。
 現在主の疲労を慮って全ての料理を引き受けている彼女に感謝を述べつつ。

 嬉しいのは間違いないのだが、刹那としては心配にもなる。
 あれほどの作業を連日続け周囲への気配りを失念しないなど、もはや狂気の沙汰だ。
 いかな海人といえど、負担が増えている可能性は否めない。   

(それに……どうも様子がおかしい気がする)

 すっ、と刹那の目が鋭さを帯びる。

 作業自体は、間違いなく順調なはずだ。
 あの異常な作業速度でそうでないはずがない、という事もあるが、他に明確な根拠がある。
 
 というのも、海人が作っている物は刹那でもその性能を判別できる物だからだ。
 
 そして、その性能は現在ですらもはや言葉も浮かばぬ異常の域。
 海人はまだ不満があるようだが、今しがた試験に耐えられず壊れた物でも十分すぎる。
 シェリスに見せれば、今度こそ海人の価値すら忘却の彼方へ吹っ飛ばして絞め殺されかねない代物だ。
 
 そして、それは海人も認識している。
 今朝の朝食の時、もう十分なのではと刹那が根拠と共に尋ねたからだ。
 まだまだ改良の余地があるから、という恐ろしい言葉が返ってきたが。

 なのでいつ手を止めても問題ないと分かってはいるはずだが―――どうも、刹那の目には今も海人が焦っているように見える。 
  
 表情自体は、最近見慣れた真剣な面持ち。
 適度な緊張感に引き締まり、年に似合わぬ威厳が漂っている。
 悪人系の整った顔立ちと相まって、覇王とか魔王とかいう言葉がよく似合う。
 いつも通りの研究作業中の表情で、刹那の密かな楽しみの一つになっているものとなんら変わらない。

 しかし、纏う空気が少し違った。

 普段の表情を保ってはいるが、どうも中に感情を押し込めているような印象を受けるのだ。
 これといった根拠があるわけでもないただの勘なのだが、どうも外れている気がしない。
 周囲に頼らず自分で抱え込んでしまいがちな主だから、余計に。
 
 そしてそんな刹那の勘は、見事に的中していた。
 
(……ちっ、もっと実験室を増やし作業スペースを広げておくべきだった)

 内心で舌打ちをしながら、海人は作業を続ける。

 正直、今回余裕はないと思っていた。
 全力を出すのは久しぶりな為、勘を取り戻すだけでも時間がかかるだろうし、
求める成果のレベルは極めて高く、許された時間も少ないからだ。
 さらに、それとは別に今回の件が終わった後の準備も進めねばならないときている。
 これで余裕ができるとはとても思っていなかったのだ。 

 が、蓋を開けてみれば予想は容易く覆された。

 まず、勘を取り戻すのにかかった時間が一時間弱。
 予想よりもはるかに早く、しかもその後は明らかに処理速度がかつてのそれを上回り、加速し続けていた。
 そのせいで、今ではこの部屋に用意した画面の数ですら海人の能力を生かしきれない事態に陥っている。 
 
 行っている研究実験についても、非常に順調。
 現時点では軒並み耐久試験に失敗しているが、それは問題ない。
 今回は最終的に一つ成功すれば十分だし、失敗作によって集められたデータが以降の実験で飛躍的な進歩を生み出している。
 ルミナスからの頼みという事もありハードルを高めに設定していたのだが、この調子では容易く乗り越えてしまいそうだ。 

 さらに言えば、今回の件が終わった後の準備は既に終わってしまった。
 予想よりも早く進行した実験で出来た余裕を一部振り分けていたら、企画案は一時間ほどで完成。
 それを実現するための計算もほどなくして終わり、結局初日の前半以外はルミナスから頼まれた事に専念している。

 おかげで、毎日海人への負担を減らそうと健気に頑張ってくれている刹那に、まともな対応をする余裕があった。
 当たり散らしはしないにしても、食事中上の空になる可能性ぐらいは十分にあったのだ。

 なので良い事には違いないのだが、余裕ができるというのは時として弊害も生む。
 それは時に油断だったり、慢心であったり、あるいは怠慢であったり様々だ。

 この時の海人に降りかかっていたのは――――雑念の発生。

 消そうとしても消しきれない暗い思いが、耳元で囁き始めている。

 本当にこれで間に合うのか、何か見落としはないか、そもそもこれを作っているのは正しい判断なのか。 
 これを作ってしまう事でかえって悪い状況を生み出すのではないか、何も手出しをしない方が良いのではないか。
 以前研究したとはいえ、専門家とは言えない自分が作って本当に良い物が出来上がるのか。
 いざ使ったら思いもよらぬ事で壊れてしまうのではないか。

 そして――――こんな速度で作業できるのに、なぜ妻が死んだ時は怠ったのか。 

(……ええい、余計な事は考えるな! 順調なだけで作業は終わっていない! 過去を嘆くより今を確実に打破しろ!)

 耳元で囁き続ける負の感情の声を、より強い意志の声でかき消す。
 海人はそのまま作業を続行しようとしたが、次に響いた声に思わず手が鈍った。

 ―――――シリル嬢の為ならできるのに、なぜエミリアの時は出来なかったんだろう。

 かろうじて動かし続けている手が、震えている。
 封じようと思っても封じきれぬ、罪悪感によって。
 どれほど温かな状況にあっても忘れられない大罪が、心に重くのしかかる。

 今は肉体強化も併用している為、当時出せたであろう最高速よりも上の処理速度だが、
当時でも全力を出していれば妻が死んだ日よりもっと前に原因となった研究は完成していた。

 今と同じ我慢をして急いでさえいれば、あの悲劇は防げた。
 アナログな手法による楽しみなど捨て、全力で取り組んでさえいれば。
 
 理屈では、分かっている。
 あの絶望があったからこそ、今全力を尽くせているのだと。
 今回の件は差し迫っているという認識があり、あの時はなかったというのも。
 過去に戻れぬ以上、今は過ちを繰り返さぬよう全力を尽くすべき。
 そんなことは、分かっている。 
 
 だがそれでも、思わずにはいられないのだ。

 なぜ今できる事があの時に出来なかったのか、と。
 シリルは大事な友人だが、それでも妻であるエミリアとは比較対象にすらならないというのに。
 絶対に幸せにすると誓ったのに、結局は何の罪もない彼女を自らの手で死に追いやった。
 生まれてくるはずだった、我が子までも。
  
 一度始まった負の思考は、止まらない。
 そればかりか、他の作業に割いていた思考すらも飲み込んで肥大化していく。
 今やっている研究の事が思考から消え、代わりにかつての大罪についての考察が始まる。
 防げた可能性が星の数ほど脳裏に浮かび、自分がいかに怠慢だったか、自分がどれほど傲慢だったか、
逃れられようはずもない自分の罪深さをこれでもかと突き付けてきた。

 全力の海人が誇る絶大な思考能力が仇となり――――膨大な負の思考が彼の心を押し潰し始める。

 ついに海人の手が完全に止まりかけたその時、

「ど、どうなさったのですか海人殿!? どこか悪いのですか!?」

 海人を心配する刹那の声が、彼を思考の海から引きずり出した。

 はっとして、海人は刹那に顔を向ける。
 彼の肩を掴んで揺さぶる刹那の顔は、今にも泣きそうだった。
 キリッとした目尻に涙が滲み、口元は切なげにふるえている。

 それを見て、海人はようやく落ち着きを取り戻した。

「……いや、なんでもない。そろそろ一段落したし、若干早いが夕食を食べたくなってな」

 ぞんざいに自分の頭をかきながら、微笑む。
 刹那に気を遣わせぬよう、余計な心配をかけぬよう、全力で普段通りを演じた。 

「っ……御要望があれば、承りますが」

 刹那は主の言葉に思わず反論しかけたが、寸でのところで思いとどまり彼の言葉に乗った。

 正直に言ってしまえば、今すぐ詰め寄りたい。
 自覚がないようだが、海人の顔からはすっかり血の気が引いている。
 態度も常の余裕を装ってはいるが、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しい。

 何もないはずがない。
 おそらくは、海人の心に異常をきたす何かが起こったのだ。
 それも、表面を取り繕いきれなくなるレベルの影響を起こす何かが。

 が、問い質したところで海人からきちんとした返答が返ってくるとは考えにくく、
そればかりか今後の彼の集中を乱すことになりかねない。
 
 ならば自分がやるべき事は、変わらぬ日常を続ける事。
 おそらく、今の海人にとってはそれが一番負担にならない。
 どうしても問いたければ、今回の件が終わってから改めて問い詰めるべき。
 そう判断したのだ。 
  
(……とはいえ、それだけで済ませるのはあまりに芸がない、な)

 海人の要望を聞きながら、刹那は密かにちょっとした小細工を企んだ。


  
   



















 シリルは自分の前方に現れた標的達に、忌々しげな目を向けていた。

 敵を狩り始めてから今日までは、比較的順調だった。
 ルミナスと組んでいたし、流石アンリというか敵戦力も余裕をもって殲滅できる範囲。
 なによりイナテアの人間がいなかったので、シリルが冷静さを保ち続けられた。

 が、今回ばかりはそうもいかない。

 彼女の眼前にいるのは、様々な武器で武装した男女二十人強。
 比較的軽装な装備で固めているが、速度重視の武装としては万全に近い。
 近くで戦争でもやってるのかと言いたくなるような装備だ。

 まあ、それだけならどうでもよかったのだが――――その中に一人、久しぶりに見る顔が混ざっていた。 

「知ってはいましたが、今回は随分と胸糞悪くなる顔が混ざってますわねぇ……」

「……よもやこちらの動きを察知していたとはな。まあいい、この場で討ち取ってくれる」

「こちらのセリフですわ――――お兄様からの恩を仇で返した罪、その命で贖いなさい」

「はっ! 奴は教皇様方に背神者と認定された! 我らに罪などあるはずもない!」

「その背神者認定の捏造に協力しておきながら、罪はないと?
あらあら、貴方方にとっての神は教皇や枢機卿であってナーテアではありませんのねぇ?」

 頬に手の甲を軽く添え、シリルは嘲り嗤う。

 亡き兄に押し付けられた不当な罪状。
 事実無根にも程がある妄言と呼ぶべきそれは、ただ上層部が宣言するだけでは成立しえなかった。
 それほどまでに兄の実績は輝かしく、普通ならあんな捏造は不可能だったのだ。
 
 それを可能にした要素の一つが、今眼前にいる男とその郎党。
 兄が率いていた当時の神官戦士団団員であり、上層部の意に従い口裏を合わせ偽証を行った者達だ。
 そして、おそらくは異を唱えようとした同僚達を殺害した者達でもある。
 
「ふ、仮に捏造だとしてそれがどうだというのだ?
奴が背神者認定を受け、それで狂った貴様が無辜の民を虐殺したのは事実。
ゆえに貴様を仕留めれば、その功績が絶大というのも事実。それが全てだ」

「……本当に、お兄様は哀れですわね。守る価値なき屑を守る為に命を張り、挙句命を落とされた。
結局、あれほど努力して実績を出し続けたのにお兄様には何一つ残らず……貴方のような下種がのうのうと生きている。
まったく……神などどこにもいませんわね」

「貴様ごときが神を語るな! もはや問答無用! 背神者シリルティア・グラウクス!
ナーテア様の代理たる我らが相応しき罰を下さん!」

 槍を掲げながら放たれた男の叫びに呼応するように、彼の周囲の者達が一斉に武器を抜いた。
 そして我こそがとばかりに、全員が一斉にシリルに向かって駆け出す。

「あらあらせっかちです事。ですが、良い判断ですわね――――もう少し早ければ」

 笑みと共に放たれたシリルの言葉に応えるように、神官戦士達の頭上を無数の影が覆った。

 彼らはそれに反応し即座に上を向くが、時既に遅し。
 不規則に降り注ぐ無数の矢は、みるみる速度を増し、眼下の彼らに降り注ぐ。
 何人かが発動待機させていた魔法で到達前に弾こうとしたが、矢はそれをその身に纏った風魔法で受け流した。
 やむなく全員が高速で降り注ぐ矢を武器で迎撃しようとするが、

「――――鈍い」

 酷薄な言葉と共に放たれたシリルの矢が、戦士達を襲う。

 ある者は頭上の矢を弾いた瞬間、首を矢で貫かれた。
 またある者は頭上と側面から放たれる矢を両手で防いだが、
横から弾かれた死した仲間の遺骸に体勢を崩され、その後飛来した上空の矢に頭を貫かれた。

 流石というべきか矢の雨を潜り抜け反撃に転じる者もいたが、それも無駄な足掻き。

 矢の雨が止んだ直後、上空から一つの影が飛来する。
 重力に加速魔法を加えた超高速で突撃する、ルミナスが。

 彼らがその存在に気付いた時には、もはや手遅れ。
 超高速で飛来したルミナスは絶妙に軌道を調整しながら、眼下にいた敵へ剣を向けた。

「ずえりゃあああああああああああああああああああああっ!」

 大地を震わすような気勢と共に放たれた斬撃がもたらした結果は、圧巻の一言。

 まず初めに剣に触れた男の頭が切れた。
 次いでその後ろにいた男の首が落ち、さらにその背後にいた女が胸を両断され、
さらに背後の男が胴を輪切りにされ、とルミナスの剣の軌道上にいた戦士が次々に斬られていく。
 とっさに防御に回した武器はおろか、その先にあった防具すらも紙のように切り裂いて。

 落下の勢いに乗ったルミナスの一太刀が終わり着地するまでに狩られた命は、実に十二。
 助かったのは、危険を感じ身も蓋もなく武器を捨て大地に伏した一人のみ。
 シリルが出会い頭に胸糞悪い顔と評し、彼女を罵倒した男だけだ。
 その男も斬撃を避けきれてはおらず、武器と一緒に左手も地面に転がっている。 
    
 言うまでもなく、男の命は風前の灯火。

 腰の剣を抜きながら、シリルはどうにか生き残った男に近づく。
 可憐な、それでいて不吉極まりない微笑みを浮かべながら。

 それを見た男が、息をのみながら後退る。

「あらあら、先ほどまでの威勢はどうなさいましたの?」

「き、貴様、なんたる非道な……! アレックスは先月結婚したばかり、ドレイクは一才の子供がいる、ロイスの奥さんは妊娠中!
他の連中だって家族がいた……! それを、それをよくも……っ!」

「私の知った事ではありませんわね。殺しに来るなら殺される覚悟もしておくのは当然。
殺されたくないのであればそもそも戦場に出るべきではないでしょう。まあ、もはや後悔もできませんけれど」

 義憤に燃えたかのような男の言葉を、冷たく切り捨てる。

 優先順位は低いとはいえ、この場の者達もシリルの憎悪の対象。
 見えぬ所で大人しくしていればわざわざ狩ろうとは思わなかったかもしれないが、
こうしてシリルを殺しに来た以上殺さぬ理由はどこにもない。

 例えそれで、さしたる罪もないのに悲しむ人間がいるのだとしても。

「おのれぇぇぇぇっ!」

 非情なシリルの言葉に男が激高し、無事な右腕で殴り掛かる。
 怒りのあまり防御を忘れたおかげか、その拳速はルミナスが軽く目を瞠るほど速かった。 

 が、所詮は悪あがき。

 シリルは慌てもせず踏み込むと、男の足を払って大地に突っ込ませた。
 そして勢いのあまり土塗れになった男の体を、骨を何本かへし折りながら蹴り起こし、腰の剣を抜いた。

「分かっていないようですが……死者を嘆く前に己の現状を嘆くべきですのよ?
そこの顔も知らぬ方々とは違い、貴方には相応しい死に様があるのですから」

「なに……? ぎゃああああああああああああっ!?」

「あら、生き汚いです事……どうせ無駄ですのに」

 四肢を完全に落とされ大地に倒れ伏した男に向かって、シリルは溜息を吐く。

 本来であれば首も落とすつもりだったのだが、咄嗟に仰け反られて出来なかった。
 もっとも、落とした部分の付け根からは血が溢れ出し、首も深く切れているので結末が多少伸びた程度だが。
   
「げ、外道……が……! 倒れた、相手を……嬲り、殺す……な、ど……」

「その言葉、そっくりお返しいたしますわ――――さっさと死になさい、ゴミ虫」

 吐き捨てるように返すと、シリルは今度こそ男の首を刎ねた。
 そして足元に転がってきたそれを、忌々しげに踏み砕く。

「……シリル」

「……失礼、御見苦しいところをお見せいたしました」

 悲し気なルミナスの言葉に、シリルは深々と頭を下げた。
 
「そんなこたどうでもいいけど……大丈夫?」

「多少時間をおけば問題ありませんわ。
それよりも、荷物を漁りましょう。流石にこのレベルなら、捨て駒ではないはずですわ」 

 淡々と述べると、シリルは敵の骸を漁り始めた。

 結果としてはあっさり片が付いたが、この連中はかなり良い腕だった。
 シリルの不意打ちによる矢の雨を受けながらそれに反応し、ほぼ例外なく対処を試みたのだ。
 あれに即座に反応し、対処を実行できる戦士は傭兵業界でもそう多くはない。
 側面からの射撃にも反応し切り抜けるとなれば、尚更だ。

 流石に本命であるルミナスの斬撃には碌に反応できなかったようだが、あれは仕方ないといえば仕方ない。
 それを狙っての戦術だし、矢が途切れた事によるほんの一瞬の気の緩みを狙い打てるルミナスの技量が凄すぎるだけだ。

 このレベルの人間ならば、運が良ければ有益な情報を持っている可能性がある。

「……そうね。んじゃ、こっちはあんたに任せるわ。私はあっちの串刺しになった方見てくる」

「はい、かしこまりました」

 シリルの矢で仕留められた死体の元に向かうルミナスを見送ると、シリルは今しがた殺した男の持ち物を漁り始めた。

 木彫りのナーテア像、銀製の聖印、中身があまり入ってない財布、と色々出てくるが、目ぼしい物はない。
 服に隠しているのかも、と服を引っぺがして探すが、それも空振り。

 が――――最後に靴を調べたところで、手紙を見つけた。
 
 シリルはそれを開き読み進めるが、途中で硬直する。
 そしてその後目が鋭く細められたところで、離れた場所にいるルミナスがシリルの動きが止まっていることに気付いた。 

「シリルー、なんかあったのー?」

「いえ、なんでもありませんでしたわー。例の集合場所の地図ですのー!」

 ルミナスに返事を返し、彼女の目が自分か逸れたところで、シリルは手紙を矢筒の隠しポケットにしまった。
 まるで、ルミナスの目から隠すかのように。
 
(はあ……こりゃ、めんどくさい事になりそうだねぇ……)

 透明化魔法を使いながらシリルの真後ろにいた雫は、心の中で溜息を吐いた。













 海人は刹那が作った夕食を食べながら、怪訝そうな顔をしていた。

 料理自体は、正直素晴らしい。
 炊き立てのご飯はきっちりと粒を立てながら新雪の如き輝きを放っている。
 横に添えられた味噌汁も汁が具材の豆腐と油揚げと見事に調和し、そのまま食べてよし、ご飯と一緒に食べてもよしの逸品。
 主菜の鮭の塩焼きもたっぷり脂が乗った素材を香ばしく、かつジューシーに焼き上げてあり、米と非常によく合う。
 少食の海人でさえ、半分ほど鮭を食べたところでついつい二杯目の御飯をおかわりしてしまったほどに。

 まだ全ての料理を食べたわけではないが、素晴らしい出来だ。
 海人の要望を全て聞き入れ、その上で丁寧に作ってくれた事がよく分かる。
   
 ゆえに料理には何ら問題ないのだが、 

「……なあ、刹那」

「なんでしょう?」

「いやまあ、別に私は構わんのだが……なんでここで?」

 ちょいちょい、と床を、この部屋を指差す。
 
 ここは、いつもの食堂ではない。
 そこよりも圧倒的に狭く、本来食べるには適さない場所。
 生活空間としては若干飾り気がない、刹那の自室である。
      
 その床にちゃぶ台を置き、刹那と向かい合って食べている。

「今日の海人殿にはこちらの方が良いだろうと思いましたので」

「……すまん。結局、気を遣わせてしまったようだな」

 澄ました顔で答える刹那に、海人は軽く頭を下げた。 
 
 刹那の言葉は、当たっている。
 先程の精神的ダメージを引きずっている今の海人には、食堂は寒々しすぎるのだ。
 雫やルミナス達まで揃っている時ならともかく、二人っきりで使うにはあそこは広すぎる。
 その点この部屋であれば広すぎず狭すぎず、かつちゃぶ台一つ挟んだ向かいに刹那がいるので、人の温かみを強く感じられる。
 自滅だろうと痛手は痛手なので、申し訳なくは思いつつもこの気遣いは素直にありがたかった。
 
 そんな海人の態度に、刹那の表情が緩んだ。    

「海人殿の御心が多少でも楽になったのであれば、それで構いません。
ちなみにまだ食べていただいていないようですが、こちらの卵焼きは今日の自信作です」

「……確かに良い焼き具合だな。ふんわりとしつつ、噛めば出汁が良い具合に滲み出る。
主役は張れんが、食卓を豊かにする彩としては実に素晴らしい」

 差し出された卵焼きを一口頬張り、海人は感想を述べた。

 自信作というだけあって、美味い。
 出汁の食欲をそそる香りを上手に引き出しつつ、その中に卵の香りもほのかに香っている。
 同時に甘めの味付けが心を和らげ、温かな幸福感をもたらす。

 美味いのもあるが、今の海人には嬉しい一品でもあった。
 
「しかし、君がここまで上達するとはなぁ……とても煮魚を焼き魚のなれの果てに変貌させていた人間とは思えん」

「……よく覚えておられますね」

 からかうように笑う主君に、恨めし気な目を向ける。

「なに、大事な思い出の一つだ。忘れるはずがあるまい」

「そういう事は忘れてくださって、もっと良い記憶だけ覚えていただけるとありがたいのですが?」

「それは出来んな。欠点美点すべてひっくるめて君という人間の記憶だ。
欠点だけ忘れるなど、君という人間に対しての侮辱だろう」

 愉しげに笑いながら、刹那の言葉を却下する。
 
 どんな優れた人間も、美点だけしかないなどという事はあり得ない。
 程度の差はあれど必ずどこかに欠点があるものだが、それを含めてその人間だ。
 都合良く欠点だけを忘れるなど、その人間そのものを見ていない証拠である。
 
 これは海人の持論なのだが、今回は必ずしもそれだけではない。 

「実にごもっともなお言葉ですが、本音は?」

「人をおちょくれるネタはいくらあっても飽きないものだと思わんかね?」

「まったく……まあ、少しは調子が戻られたようで何よりです」

 刹那は悪ガキっぽく笑う主君に頭を抱えつつも、若干安堵した。

 研究中断から今に至るまでずっと海人の表情には暗い影が差しているが、最初に比べれば随分と薄くなっている。
 今の態度も普段の態度に近く、少しは気が紛れたのだと確信できた。
 思いを自制し、小細工を弄した甲斐はあったのだ。  

「君のおかげだよ……ま、さっきも言ったが、なんでもない。あまり気にしないでくれ」

「それで気にせずにいられるほど、拙者にとって海人殿は軽い存在ではありません。
そこはお忘れなきよう願います。ところで今回の件が終わった後のあれなのですが……」

 最後に一つ釘を刺すと、刹那は他愛のない雑談に話を戻した。
 少しでも、海人の心の負荷を減らすために。






















 その夜。海人の意識が目覚めた時、周囲には何もなかった。

 比喩ではなく、文字通り何もない。
 部屋の窓や壁はおろか、体の下にあるはずのベッドすらも。
 それどころか床もなく、ただひたすらに闇が広がっている。 

(……夢か。これは久しぶりだな)

 周囲を見渡し、海人はそんな感想を抱いた。

 幼い頃は、それなりの頻度で見ていた夢だ。
 周囲に何もない、ひたすら真っ暗な空間。
 物悲しく落ち込む光景だが、便利な面もある。

 その事が脳裏をよぎった瞬間、海人の前に今の研究室と同じ設備が現れた。 

(さて、研究を続けるか)

 そう思うと、海人は現実と変わらぬ手際で今日やっていた研究を再開した。

 この夢は所詮夢で起きたら何をどう進めたのかも忘れてしまうのだが、
ここでその日やっていた研究を続けると、脳内の思考整理になるのか目覚めた日の研究がはかどる。
 
 余計な雑念に邪魔されたし丁度いい、そう思っての行動だったが、

「……ねえ、どうして研究するの? どうせ無駄なのに」

 背から掛けられた声に、思考が完全に止まった。

 振り返ると、そこには一人の少年の姿。
 少し目つきが鋭いが、全体的にあどけなく可愛らしい。
 そんな少年が、海人に泣きそうな顔で問いかけてきていた。

「……無駄なはずがなかろう。今回使えるかはわからんが、作っておけばいずれは役に立つ」

 苦々しい思いを噛み殺しながら、海人は少年―――かつての自分の問いに答えた。

「無駄だよ……何をやっても。
いつだって、何をやっても、大事なものばかり僕の手からは零れ落ちていく。
お父さんやお母さんすらも……僕は何も悪い事なんてしてなかったのに。
それどころかいろんな人の為に頑張っても、結局二人は帰ってきてくれなかった……」

 幼い頃の海人は、弱々しくそう呟く。

 それは海人にとって、なかなか心を抉られる言葉だった。
 今も自分の中でくすぶり続け、捨てようとしても捨てきれない考え。
 未練がましい己の弱さの象徴とも言える言葉だ。

 今目の前にいる自分に、罪があったとは思わない。
 両親が失踪するまでは普通に良い子だったし、その後もしばらくは善良な子供だった。
 むしろ多くの人間を助けようとして、実際に結果も出していたので徳があったと言えるだろう。
 無知である事が罪と言ってしまえばそれまでだが、その程度だ。

 だが、それでも一番望んでいたこと――――両親の帰還はなかった。

 手に入ったのは生活費では到底使い切れない大金と、様々な悪意だけ。
 どんなに努力をしても、そういう思いは心の片隅で常にくすぶっている。

「それとこれとは別の話だろうが。あんな唐突な失踪である以上、二人が帰ってくるかどうかと私の行動に因果関係はないはずだ。
それに対し、今回のこれに関してはまったく無意味という事はない」

「違う。結局僕の手には何も残らないんだ……どんなに頑張っても、どんなに正しいと思う道を選んでも」

「ただの思い込みだ。壊滅的に運が悪かろうと、続けていれば何も残らないという事はない。
事実、エミリアという最高の女性と巡り合い、結ばれた」

 なおも悲観的な言葉を続けるかつての自分に、静かに反論する。
 呼吸が乱れ、激しく脈打ち始めた心臓の鼓動を無視しながら。

 すると、海人の背後から別の声が響いた。

「……それすらも零れただろう? ちゃんと最善を選んでいたはずなのに」
 
 覚えのありすぎる声に思わず海人が振り返ると、そこには成長した自分がいた。
 幼い頃の自分の面影を若干残しているが、身長の違いと人相の悪化ですぐには連想できない容姿。

 ほぼ今と変わらないが――――唯一にして最大の相違点が、左手薬指の指輪。

 おそらくは人生で一番幸せであった時期の、自分だ。 
 
「……最善ではなく、私が慢心しすぎていたせいだろうが。お前が、私がしっかりしてさえいればあの事故は……!」

「ほう? 最善ではなかったと? 安全対策は考えうる限り全て行い、万一の事故が起きても計算上問題はないはずだっただろうが」

「……そもそも、エミリアが研究室に来る事自体止めているべきだった」

「ふん、絶対はないのだから上にいてくれと何度説得した?
研究時間を削ってまで行った説得も、まったく効果がなかったじゃないか。
あれでどう止められた?」

「……ならば、研究の手を止めていれば問題なかったはずだ」

「かもしれんな。だが、おかしいと思わんか? 
なんだかんだで私の意思を尊重してくれていたエミリアが、どうしてあの時だけ聞き分けが悪かった?
それも、かつてないぐらい熱心に説得されたにもかかわらず」

「……妊娠中だったんだから、精神的に不安定になってもおかしくはなかろう」

「かもしれんな。だが、なぜか彼女らしからぬ態度になり、そして万に一つもないはずの事故死にいたったのは事実だろう?」

「……何が、言いたい?」

「天地海人の手には常に何も残らない、そういう宿命なのではないかという事だ。
何をどれだけ頑張ろうと、最後に残るのは研究成果だけ……そう思わないか?」

「……っ!」

「今努力してるのも、結局は無駄。
それどころか、今の幸せもどこかで零れ落ちる……どんなに頑張っても」

「そうさせない為に、頑張るんだろうが!」

 かつての自分の言葉を遮り、全力で否定する。
 
 この最悪の大失敗をやらかした馬鹿野郎の言葉は、絶対に間違っている。
 頑張ってもあの結果なら、頑張らなければどんな悲惨な結末が待っているのか分かりはしない。
 
 そんな海人の激昂もどこ吹く風とばかりに、かつての海人は静かに言葉を返す。

「そうだな。そう思って頑張った結果が――――――――これだったがな」

 言葉が終わると同時に、周囲の風景が一変する。

 そこは、一言で表すなら地獄。
 何もかもが消し飛び、部屋の中には綺麗さっぱり何も残っていない。
 あるのは爆発の名残を示すかのような、どす黒い硝煙のみ。
 そこにあったはずの防壁も機材も、全てが衝撃と高熱で消し飛んでいる。
 当然、その場に生者などいようはずもない。 
 
 あまりに生々しくおぞましいその光景に、海人の意識は一瞬で覚醒した。  





 





 



「う゛ぁあ゛あああああああああああぁあああっ!!!!!!!」

 喉が張り裂けんばかりに絶叫し、海人は跳ね起きた。

 呼吸を整えようとするが、息は荒いまま。
 涙を拭っても、その端から再び溢れ出してくる。
 全身を濡らす汗でパジャマが張り付いているが、それを気にする余裕すらない。

「はあ、はぁ……はぁ……くそっ! くそぉっ……!」

 呻きながら、海人は己の頭を抱えた。

 先ほど見たのは、かつて天地海人という人間を崩壊させた光景。
 それまで培ってきた能力に対する自負も、その根源となった探求心をも消し去り、
果てはその他の感情すらも滅ぼしつくし、生きる抜け殻に変えた地獄の風景。
 最愛の妻と生まれる前の我が子が、肉片一つ残さず消滅した直後の記憶だ。
 
 そして―――その後、何か月も夢で見た光景でもある。

 その夢は、毎日毎日寝る度に海人の前に姿を現した。
 ある時は妻との幸せな記憶を、ある時は研究を楽しんでいた記憶を、
またある時はやがては生まれてくる我が子の為の玩具を揃えていた記憶を見せ、
最後の最後であの地獄を見せつけられる。

 それはただでさえ砕け散っていた海人の心をすり潰し続け、
元々心の奥で抱え込んでいた疑念を膨れ上がらせていった。
   
 すなわち―――――結局何をやろうと、大事なものは自分の手には残らないのではないか、と。
 
 分かっては、いる。
 ただの思い込みからくる無力感なのだろうと。
 やるべき事をやらなければもっとひどい事になるはず、そんなことは分かっているのだ。

 だがそれでも手は鈍り、心が軋む。
 結局自分の幸福は全て、その後訪れる絶望を引き立たせる為のものでしかないのではないかと。
 そもそも自分が幸福を手に入れようと、誰かの為に何かをしようと思わなければ相手は幸福なのではないかと。
  
 そんなはずはない、明確な根拠もない、といくら否定しても、そんな思いが消えない。
 
 瞳に残っていた僅かな生の輝きすらも消えそうになったその時、部屋のドアが蹴り破られた。  

「海人殿どうなさったのですか!?」

「……ああ、いや、なんでもない。ちょっと夢見が悪かっただけだ。起こしてすまなかった」

 飛び込んできた刹那に見られないよう、気合で涙を止め、拭う。
 なるべく自然に、それとない動きになるよう気を配りながら。

「……っ! なんでもないはずがないでしょう!」

 主に怒鳴り返すやいなや、刹那は部屋の隅にある化粧台の所まで走り、それを両手で抱えて海人の前に叩きつけた。
 呆気にとられた海人が、思わず眼前の鏡を見ると、

(……ひどい有様だな)

 鏡に映った自分の顔を見て、海人は溜息を吐いた。

 頬には、いまだ色濃い涙の跡。
 髪はその精神状態を表すかのようにめちゃくちゃ。
 目には生気がなく、まるで人形の目のよう。

 これでは、刹那が心配するのも当然だ。

「まあ、確かにちょっとというには悪すぎたが……所詮夢は夢だ。気にしなくていい」

「たかが夢にそこまで心を侵されておられるのに、気にせずにいられるはずがないでしょう!?
なぜ弱音を吐いてくださらないのです! なぜ助けを求めてくださらないのです!
拙者でも話を聞く事ぐらいは出来るというのに……!」

 常になく弱々しい笑顔でごまかそうとする主に、刹那は思いっきり食って掛かった。

 もう、限界だった。
 何ができるわけでもないとしても、海人の心の傷を抉る事になったとしても、
こんな姿の彼を見せられて放置などできるはずがない。
 
 ―――――部屋に入った瞬間見た姿を思えば、尚の事だ。 

 先程海人は自分が入ってきた瞬間、僅かに、本当に僅かだが手をこちらに伸ばそうとしたのだ。
 しかもこちらを見るその目は、まるで魔物に食われかけている村人が助けを求める時のようだった。
 無駄と知りつつも、縋りつかずにはいられない、そんな表情だったのだ。
 
 本当は縋り付きたい―――助けを求めたいのだ。

 それでも、この期に及んで海人は自分を気遣っている。
 重い話で心に負担をかけてはいけない、そもそも自分の問題なのだからと。

 ――――冗談ではない。

 自分にとって、海人に縋られる事は無上の喜びだ。
 それに伴っていかなる負担が生じようと、苦にもならない。
 少なくとも自分の心に負荷が生じる程度ならば、絶対に。
 その程度で海人の心を多少でも慰められるのなら、喜んで受け入れる。 
 
 なのに海人は、この優しすぎると同時に鈍感すぎる主はそれを分かってくれていない。
 それを思うと、余りの口惜しさに涙さえ滲んできた。  

「……愉快な話じゃないし、そもそもが自業自得の極めて情けない話だ。正直、本気で幻滅されかねぐっ!?」

「幻滅……? 幻滅と仰いましたか!? 拙者が? 海人殿に!?
表現が多少ひねくれているだけで、いつも強すぎるぐらいの親愛を示してくださる貴方に!?
自分が潰れる可能性も承知のはずなのに、それでもなお相手を気遣ってしまう貴方にっ!?
見損なわないでいただきたいっ!」

 刹那は主の頬を引っ叩き、そのまま胸倉を掴んで詰め寄る。

 今の海人の言葉は、あまりに腹立たしく、悲しかった。
 話したいという思いが少しでもあるのなら、話してくれればいいのだ。
 過去の海人の罪がどれほどのものか知らないが、今の自分には関係ない。 
 自分の前にいるのは現在の海人で、それを慕っているのだ。

 例えどれほど許されぬ罪を犯しているのだとしても、共にその罪業を背負う覚悟を決めこそすれ、幻滅などするはずがない。 

(なのに、なのに……どうして分かっていただけないのだ……!)

 あまりの悔しさに、ついに刹那の目から涙がこぼれた。  

 ――――それを見て、海人の腹が決まる。

 ここまで刹那に心配をかけた以上、もはや黙っているのは悪手でしかない。
 進んで話したい話ではないが、身内である刹那にならば話しても構わない、むしろ一度吐き出したかった話だ。
 心はじくじく痛みそうだが、それは完全に己の不徳が原因なので受け入れるしかないだろう。

「……分かった。話そう。ただ、気分のいい話ではない事は覚悟してくれ」

 自分の言葉に刹那が頷くのを確認すると、海人はゆっくりと語り始めた。

 先程見た夢の話。
 その意味を知るのに必要な己の過去。
 妻を喪った事故の話まで、全てを包み隠さず。
 今の自分が何を恐れているのかまでも、詳細に。
 
 そうして語り終えた海人は、息を吐きながらゆっくりと話を締めくくった。

「……これで、全てだ。馬鹿な話だろう?」

「……よく、分かりました。海人殿がどうしてそれほど苦しまれているのかも」

 今にも崩れ落ちそうな海人の顔を見ながら、刹那は悲し気に目を細めた。

 突き詰めてしまえば、どうしようもない無力感なのだ。
 訳も分からず両親を唐突に失い、その後の人生は致死毒にまみれた茨の道。
 誰かの為にと思い努力すればするほど人は離れ、挙句命すら狙われるようになった。
 
 そしてようやく愛してくれる、愛おしいと思った女性に出会い、子も出来たかと思えば、
起こるはずもなかった事故で妻子を失う。
 それも我が子の為に、家族で幸せになる為にやっていた研究で。

 常人でも心が砕ける経験だろうが、身内への愛情が人並み外れて強い上に、
事実として空前絶後の研究能力を持つ海人の衝撃は計り知れない。

 その頭脳は常人なら考えつかない程膨大な喪失の可能性を考えてしまうだろうし、
それら全ての対策を打ったとしても、事故の時の記憶が見落としの可能性という恐怖を延々与え続ける。

(……根拠があれば解決策はある。根拠がないと自覚してなければ自覚させればいい。
だが、根拠がなくそれを自覚していながら不安を消せない御方をどう慰めればいい……!)

 ギリ、と歯を食いしばる。

 あまりにも、厄介だ。
 海人はいつか来るかもしれない最悪の未来に怯え、その恐怖から逃れられない。
 明確な根拠などなく、それを自覚してなお消えぬそれを消す方法。
 そんなものが、果たしてあるのだろうか。
 
 だが、それを見つけない限りは海人は救われない。
 ひたすら逃れようのない恐怖に追われ続け、いずれは壊れてしまうだろう。
 なんとかしなければ、ならない。海人の為にも、自分の為にも。 

 そうして思考を続け―――――たった一つだけ、可能性を思いついた。
 
 それを試すべく、刹那は海人の頭を背後から柔らかく抱きしめた。

「…………海人殿、今は幸せではありませんか?」

「幸せだよ。だからこそ、恐ろしい」

「確かに、いずれは零れるのかもしれません。
ですが海人殿……今貴方の手元にある大事なものは、零れるはずだったものを繋ぎ止めたものばかり。
それを忘れてはおられませんか?」

「繋ぎ止めた……?」

「はい。聞いた話ではありますが、カナール襲撃の際は、貴方がいなければ全滅の可能性も極めて高かったと伺っています。
ルミナス殿の姪のリリー殿も、貴方が薬を作らねば亡くなっていた可能性が高く、そうであればルミナス殿は悲嘆にくれたでしょう。
そして拙者と雫もまた、貴方に繋ぎ止められた人間です」

「……他はともかく、君と雫は違うと思うが?」

「いいえ。拙者も雫も、正直疲れておりました。食うには困らないものの、宿無しが続く生活。
毎度稼ぐ端から金が消えていき、未来の展望がまるで見えない日々。
しかも雫の悪癖は修行で自制心を強めてもさしたる改善は見受けられず、
修行が行き詰まれば一気に悪化する可能性も十分ありました。
最悪の場合、拙者の手で雫を討つ覚悟さえしていたのです。
それら全て……海人殿と出会い、ここで雇っていただけた事で変わったのです」

 首を軽く横に振り、刹那は言う。

 最近つくづく実感させられる事だが、海人には本当に助けられたのだ。
 生活面での不安がなくなった事もそうだが、何よりも雫の悪癖や体質が大きい。

 雫という人間の異常性を全て知った上で、海人は受け入れた。
 それによって、一度自らの命が危機に晒されたにもかかわらず。

 そして、雫の悪癖は改善された。
 今までの修行は何だったのだろうかと言いたくなるほどに。
 以前なら確実に発現して無差別に殺しまわりかねなかった場面でさえ、自制できるようになったのだ。

 それだけでなく、雫は笑顔が増えた。
 以前のどこか表面的な笑顔ではなく、心の底からの笑顔が。
 それに伴って悪戯好きも進行してるのが困ったところだが、刹那としては非常に嬉しい変化だ。
 
 もし海人が雫を受け入れてくれなければ、それらはすべてなかった。
 それどころか、いずれ自分は妹を討たねばならなかったかもしれないのだ。
 そしてその場合、己の不徳を恥じ自らも後を追っただろう。
   
 そんな思いの強さを示すように刹那は海人の頭を抱く力を強め、話を続ける。

「確かに、将来全て失われるのかもしれません。抗えぬ何かが起きるのかもしれません。
ですが、今現在は確実に貴方の手元に全てが揃っています。
そしてそれがあるのは貴方が動いてくださったからこそ。
海人殿……貴方の行動は、確かに拙者共を救ったのです。
拙者共を大事に思って下さっているのであれば、決して無駄などという事はないはずです」

「…………そう、か。そうだな……ああ、確かにそうだ……そうだった」

 刹那のぬくもりに包まれながら、海人は先程までの不安が消えていくのを実感していた。

 確かに、刹那の言う通りだ。
 将来はともかく、今は大事なものが全て手元にある。
 そして、それは海人が自ら動いたからこそ今ここにあるものだ。

 ――――それを、すっかり忘れていた。

 カナールの戦いの後、ルミナスに一度諭されたというのに。
 多くの人間からの感謝で、それを十分に理解したはずだったのに。
 自分が動く事にも意味があった、それを実感させてもらったというのに。

 あまりに穏やかで平和な日々に、すっかりそれを忘れ去っていた。
 それがどれほどの価値を持つのか、あの時は十分に知っていたはずなのに。
  
 そう、いずれまた何らかの理由で失われるのだとしても、今ここにある幸福は幻ではない。
 そしてこの温かな幸福を手に入れたのは、紛れもない自分の行動なのだ。

 ――――ならば、もはや根拠なき不安に怯えてなどいられない。 

 これまでの自分の行動が意味を、価値を確実に残しているのであれば、恐怖を超えるには十分。
 自分の努力で一時的にでも大事な者を守れる可能性があるなら、頑張る理由はそれで足りる。
 まして、それで守れる可能性が高いなら尚の事だ。
 
 海人の体に力が戻った事を感じ、刹那は静かに問いかけた。 

「不安は、消えましたか?」

「ああ、ありがとう。もう大丈夫だ……君には何か礼をしないとな。本当に気が楽になった」

「不要で……いえ、一つだけありますね」

「ああ、なんでもいいぞ。遠慮なく言ってくれ」

 苦笑しながらも、海人はどんと自分の胸を叩く。

 なんでもいいというのは本心だが、実のところ予想はついている。
 刹那が一番欲しているであろう物。
 吸血族である彼女にとって一番美味な食事。
 すなわち、海人の血液である。

 海人はそれを見越してパジャマの前を開け首筋を出そうとしたが、実際に返された言葉に思わず固まった。

「今日はこのまま寝たいです。本当に不安が消えたのか、海人殿の演技にごまかされているだけではないか、不安なので」

「……ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待とうか刹那」

 どうにか再起動した海人は、思わず待ったをかける。
 ついでに刹那から離れて正面から話そうとしたのだが、彼女の抱擁は海人の頭を胸元で固定して離さなかった。

「はい、なんでしょう?」

「あー……これでも私は健全な若い男で、君は文句のつけようのない美女なわけだ」 
 
「文句のつけようがないかはともかく、そうですね」

「その、だな。流石にけじめをつけていない以上、妻の手前不埒な事をするつもりはないが、
君レベルの美女に一晩中密着されてしまうと、流石に絶対とは言い切れんのだが……ついでにいうと、密着状態なら多分君も逃れられんぞ」

 なおも脱出を試みながら、諭す。

 海人とて血迷うつもりはないが、刹那と一晩中密着していては理性を保てると断言はできない。
 単に優れた容姿の女性というだけなら余裕で保てるが、刹那は分類としては身内なので警戒心による抑えが欠けてしまう。
 そして万一血迷った場合、密着状態では刹那といえど海人から逃れる事はほぼ不可能。
 海人が習得している対女性用の技術は、そういうレベルのものだ。
 
 大丈夫だろうと思ってはいても、無用なリスクは冒すべきではない。
 
「信じておりますので」

「いや、信じられてもその信頼が痛いというか、重いというか……」

「なんでも良いと仰ったでしょう? 嘘を吐かれたのですか?」

「いやいや流石にこれは予想外だぞ!? てっきりいつもの如く血を飲ませろと言われると……!」

「男に二言はない、と申しますが?」

「それでも限度というものがあってだな!?」

「ふう……そこまで仰るならば、仕方ありませんね」

 溜息を吐くと共に、刹那は海人の拘束を解く。
 その感触を感じ、海人は安堵の息を吐きながら頭を起こした。 

「……分かってくれたか」 
 
「はい――――強硬手段です」

「へっ……!?」

 間抜けな声を最後に、海人の意識が暗転した。
 刹那の打撃によって、脳を激しく揺さぶられて。

(……これぐらいの役得は、お許しください)

 くったりとした主君と共にベッドに横たわり、刹那は微笑みながら目を閉じた。
コメント
あれ?シリルの話…だよね?
第九部はシリルの話のはずなのにいつの間に刹那のターンになりましたね。

これで海人に関する情報面では、刹那>ルミナス>ローラ、刹那が一番リードしていますが、
「身内」という立場も恋愛に繋がりにくいという側面もよくありますから、
海人の中にまだはっきり意識してませんね。
やっぱりローラのキスの効果がすごかったな…

今回の雫の隠密、もしかしてシリルのサポートと暴走阻止だけじゃなく敵の証言の録画録音もあったりします?

ところで、遅筆と言っても毎回更新の量がかなり多いから、普通に小分けしての毎週更新も可能なはず。それをしないのは、もしかして一回多く書いて、それから全体的に細かい部分に調整を入れるという書き方をしてますか?
[2016/11/14 12:43] URL | ホセ #- [ 編集 ]


>刹那は微笑みながら
計画通り(´ー`)
[2016/11/14 12:56] URL | 黄金 #79Ss0voc [ 編集 ]


更新お疲れ様です!
ついに刹那に過去を明かしましたね。
これでヒロインレース的にはみんな同列くらいにはなったのかな?
そして最後の同衾で思わずイヤッホー!となってしまいましたw
[2016/11/14 19:59] URL | きぎたな #qjsITxmk [ 編集 ]


敵は結構な布石を張ってますね。まさか、最初から男達が殺される前提で手紙を仕込むとは。手紙の内容次第で色々と変わって来そうですね。
海人の方は…本人が自覚出来ればいいんですよね。助けたことは無駄じゃないって。
…一応、ヒロインレースは刹那が一歩リードかな?

追伸
コーラなどの炭酸水ネタはいかがでしょうか?
[2016/11/15 08:09] URL | コスモ #Y2SfxCmk [ 編集 ]


いつからヒロインがルミナスだけだと錯覚していた?
[2016/11/19 10:56] URL | #- [ 編集 ]

更新お疲れ様です
シリアスが続き少し思いません雰囲気のなか、刹那に心情を語る海人……そしてそれを包み込む刹那に涙がホロリとしたなかからのコミカルな雰囲気で、刹那との同衾……おいこら、私の涙を返せ、そして爆発しろ


まぁ、この世界では海人には幸せになってもらいたいなぁ
[2016/11/20 11:30] URL | 名無しの権兵衛 #y2a4lNMg [ 編集 ]


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