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ラノベを目指してみよう
グース・カピーこと九重十造が人様を楽しませられるレベルの文章を目指して色々書き連ねる場所です。          軽く楽しく読める話を書ければいいなと思ってます。
番外編セット28



 番外編136



 雫は屋敷の中庭で、くつくつと煮立つ鍋を前に顔をほころばせていた。

 鍋の中身は、おかゆ。
 朝の鍛錬で少しばかり空腹感が強くなりすぎ、
かつ朝食まで若干間がある事から軽く腹に入れておこうと思って作った物だ。
 この程度の量のおかゆでは雫の腹の足しにはならないが、朝食前の前座としては適量である。

 いただきます、と軽く手を合わせ、箸を伸ばす。

「熱っ……! はふ、はふ……!」

 熱々のおかゆが、雫の口内で転がされる。

 特に味付けはしていない、水と米だけの味わい。
 シンプルかつ単調な味わいだが、しっかり味わうとその美味さが良く分かる。

 口に入れた直後に広がるのは、水の儚い甘味。
 上質な水に極上の米が溶け出したその味わいは、なんとも言えぬ滋味に溢れており、
鍛錬直後で若干尖っていた心に安らぎを与えてくれる。

 次いで広がるのは、米のしっとりとした甘味と旨味。
 粒がしっかり残っている為、その味は水に溶けだしたそれよりはるかに強く、先程よりも食事をしていると実感させてくれる。
 かといって味が極端に強いわけではなく、ほのかだがしっかりとした滋味が口に広がっていく。

 ひとしきり味わった後に飲みこむと、残るのは水の後味。
 気を抜けば見逃しそうな程儚い甘味が数瞬残った後、綺麗に消えていく。
  
 とりあえずおかゆの味を堪能した雫は、はふう、と息を吐くと、鍋の脇にある小皿に手を伸ばす。

「おっ塩、おっ塩~♪」

 濡れた箸先にちょこんと塩を付けると、雫はそのまままた一口おかゆを食べた。  

 先程の美味が、より鮮明になって感じられる。
 ほんの僅かな塩味が、繊細なおかゆの味を引き立てているのだ。
 その分少しばかり味の清廉さが損なわれた気もするが、それが気にならない程に美味い。

 その美味さに、ついつい同じ作業を繰り返してしまう。
 口の中の皮がむけそうな熱さすらほとんど気にする様子もなく。
 むしろ、その熱さこそが良いとばかりに。
 
 雫は心行くまで塩とおかゆの相性を堪能すると、今度は漬物に手を伸ばそうとし―――止まった。

「むう……どれから行くべきか」

 用意した漬物を睨み、唸る。

 たくあん、千枚漬け、柴漬け、梅干し、どれも素晴らしい逸品だ。
 そして、当然全ておかゆとの相性が良い。

 たくあんは大根の甘味と適度な塩気、そして小気味良い歯応えが魅力。
 おかゆの素朴な味に個性的な旨味を加え、さらに歯応えの良さで食事の実感を強めてくれる。

 千枚漬けはたくあんほど個性の強い味ではなく歯応えの良さも劣るが、
素朴な味わいと優しい食感を併せ持つおかゆとはこちらの方が馴染みやすいかもしれない。
 表面の少しねっとりとした食感も魅力だ。

 柴漬けの魅力は、なんといっても強めの塩気と紫蘇の香りだ。
 その香りの強さでおかゆの香りをほとんどかき消してしまうのが難点だが、
先程からおかゆそれ自体の味はたっぷりと堪能していたので、
目先を変えるにはむしろ丁度良いかもしれない。

 梅干しも、捨てがたい。
 主張の強い梅の香り、さらには強烈な塩味と酸味。
 これらはむしろ御飯の方が相性が良く、おかゆを味わうには不適にも思えるが、
これだけ上質なおかゆならばそれらに圧倒されてもなお、味を支える土台としての主張を残すだろう。
 
 とはいえ、いつまでも迷ってはいられない。

 いかに美味いおかゆとはいえ、冷めてしまえば味は落ちる。
 御飯ならば冷えてもあれはあれで美味い、というか米の甘味という点ではむしろ増すのだが、
冷めたおかゆは色々と悲惨だ。
 火の魔法で再加熱という手もあるが、再度温めている間にも本来の朝食の時間は迫ってくる。

 さてどうしたものかと考えていると、すぐ脇で熟睡していた男が目覚める気配がした。

「おはよーございまーす」

「……おはよう。結構な量だが、朝食入るのか?」

 ふあ、と欠伸を噛み殺しながら、海人が訊ねる。   

「大丈夫ですよ。海人さんも食べます?」

「いや、いらん。しかし、色々と揃えているな」

「ええ。どれから食べよっかな~とちょっと悩み中です」

「まあ、それだけ漬物があればな。とはいえ、何度も食べてるだろう?
好きな物から食べていけばいいじゃないか」

「そりゃもっともですけど、折角美味しいんですからちゃんと味わいたいじゃないですか」

「なるほど、もっともだ。しかし、おかゆに合わせるのが漬物だけでは面白味が……」

 海人は言葉を切ると一瞬考え込み、ぽんと手を打った。

「どうしました?」

「いや、そういえば他のおかゆと相性の良い物を忘れていたと思ってな。
制約にも引っかかってないのに、迂闊だった」

「そんなのあるんですか!?」

「ああ、一つ試してみるか?」

「ぜひっ!」

 満面の笑顔でおねだりする雫に苦笑しつつ、海人は創造魔法を使う。
 直後、彼の手元に陶器製の小さな水差しが現れる。 

「これをたっぷりかけて食べてみろ」

「は~い」

 言われるがまま、雫は水差しを傾ける。 
 すると、中から少し黄色がかったとろみのある液体が現れた。
 とろとろと流れ落ちていくそれが、鍋の表面を満たしたところで、手を止める。

 そして、一口頬張った。

「美味っ!? わ、薄味だけど出汁がしっかり効いてて……美味しいですこれ!」

 はぐはぐとかっ込み始める雫。

 上質のかつお出汁の味が、米と良く絡み合う。
 米の甘味を引き出し、それが出汁の味をまた引き立て、と旨味の螺旋が口の中で広がっている。
 香りがまた素晴らしく食欲をそそり、手が止まらない。 

 気がつけば、雫の前の鍋は空になっていた。

「気に入ってくれたようでなにより」

「すっごい気に入りました! もう、さっすが海人さん! こんな美味しい物を隠し持ってたなんて!」

「誤解のないよう言っておくが、これは向こうのある料亭の名物料理だ。
ま、本家は粥以外にも色々と出るんだがな」

「なるほど……ところでこれ、ルミナスさんとシリルさんは御存じですか?」

「いや、今の今まで完全に忘れ去っていたからな。一度も出した事がない」

「だと思いました。はい、回れ右してくださ~い」

 悪戯っぽく笑う雫の指示に従い、海人は背後を振り返る。

 そして、硬直した。
 そこにいたのは、鍛錬から帰ってきたばかりと思しき友人二人。
 どちらも海人に眩いほどの笑顔を向けている。

「……雫、朝食も粥で良いか?」

「これなら美味しいから問題なしです♪」

 やれやれ、と肩を竦めた主の問いに、雫は輝かんばかりの笑顔で答えた。    
 





 番外編137





 困ったものだ、シリルはそう一人溜息を吐いていた。

 ここしばらく、カナールに来るたび面倒がやってくる。
 その処理は大した作業ではないのだが、こうも頻度が多くては嫌気がさすというものだ。

 まして、その間はルミナスと離れ離れ。
 こんなくだらない用事で最愛の人物との貴重な時間を削られるなど、
腹立たしい事を通り越して殺意さえ湧いてくる。
 
 とはいえ、処理しないわけにもいかない。
 後々を考えれば、逐一潰していくのが最善だからだ。

 ゆえに、シリルは今日も今日とて一人奮戦していた。

「あらあら、この期に及んでまだ逃げますの? 
威勢の良い事を仰っていましたのに、随分と臆病ですこと」

 壁に突き当たって尚ずりずりと逃げようとする男に、シリルはゆっくりと歩みを進める。

 その顔に浮かんでいるのは、笑顔。
 それは思わず目を奪われるような可憐さに満ちており、
その絹糸のように美しい金髪と相まって、まるで妖精のようである。

 が、男は知っていた。

 この笑顔に見惚れてはならない、と。
 可憐で美しくも、悪戯好きで残酷。
 正しく御伽噺の妖精の笑顔である事を、男は嫌になる程知らされていた。 
 
 なにしろ――――彼女は、この笑顔のままで五人もの男の仲間を蹂躙し尽くしたのだから。

「くっ、くそ! なんでだ! なんでてめえが俺らを潰しにかかる!?」

「なんで、と言われましても……害虫を駆除するのに、理由が必要ですの?」

 今にも泣きそうな男の訴えに対し、心底不思議そうに首を傾げる。
 その態度に男は状況も忘れ、食ってかかった。

「害虫ってんならあの野郎もだろうが! いや、もっと性質がわりぃ!
てめえら侍らすだけに飽き足らず、他の女の視線も集めてやがんだかぎゃあ!?」

「あら、失礼。あまりに不愉快だったもので足が滑りましたわ。
私とお姉さまがあの大馬鹿男に侍っている? 寝言はせめて寝てほざきなさいませ」

 男の胸に踏み下ろした足へ体重をかけながら、軽く殺気をぶつける。
 涙を流しながらガタガタ震えているが、知った事ではなかった。

 心外、どころの話ではない。
 侍るというのは、上位者に対し使う言葉。
 つまり、海人が上位でこちらが下だと見ている事になる。
 自分だけでも許し難い評価だというのに、ルミナスまでそう評されてはとても寛容にはなれない。

 まあ、この程度の男がそこまで言葉の意味を知っているとも思えないのだが。
 
「まあ、いずれにせよ貴方方は目障りなんですの。
折角の休暇中に不快な視線を浴びるのは、あまりにも腹が立ちますわ。
とはいえ、すぐにやめる事は出来ないでしょうから……そうですわね、この町から消えていただきましょう」

「なっ! 馬鹿言ってんじゃねえ! ここに根付くまでどんだけ苦労しぐああああああっ!?」

「勘違いはいけませんわね。消えてほしい、ではなく消えていただく、ですわ。
貴方に選択権はありませんの。ああ、頷くか声に出してはいと言うかぐらいは選ばせて差し上げてもよろしいですわよ?」

 身の程知らずにも反論した男に、優しげな口調で現状を教える。
 
 その口調とは裏腹に、シリルの行為は無慈悲そのもの。
 更に体重をかけられた男の肋骨はミシミシと不協和音を奏で、
同時に男の聞き苦しい悲鳴も大きくなっている。
 見る者が見れば、あと少し踏み込むだけで骨が砕け、さらに踏み込めば命を奪える事が一目瞭然だ。

「があああああああっ! わ、分かった! この町を出ていく! だから殺さないでくれぇぇぇえっ!」

「よろしい」

 男の返事に笑みを深めると、シリルは足元から男を解放した。
 そして遮音魔法を解くと、用は済んだとばかりにあっさりと踵を返す。

(……く、くくくくそ! 見てろよ! どんなに強くても隙はあるはずだっ! 
隙見てあの男攫って二人まとめ……っ!?)

 シリルの背中に心の中で悪態をついた瞬間、男の前に二本のナイフが突き立った。
 それは彼の服の布だけを地面に縫い止め、肌には一切傷をつけていない。
 しかし、その位置はあまりにも恐ろしかった。

 戦慄する男の恐怖を煽るかのように、シリルが戻ってくる。
 
「ああ、言い忘れましたが、消えるのは本日中が期限ですわ。
もし破っても警告にとどめて差し上げるつもりではありますが、
手が滑る可能性もございますので、あしからず」

 ひょいっと男の股間すれすれに突き立ったナイフに手を伸ばす。
 が、その直後シリルは溜息を吐いて手を引っ込めた。

「安物ですし、それは餞別に差し上げますわ。
汚物に塗れた物を再利用する気にはなりませんので」

 言い捨てると、シリルは失禁した男を放置して今度こそ立ち去る。
 
 その背中が消えると、男は慌てて立ち上がり荷物をまとめるべく宿泊先に走った。
 あんな化物に関わるなど二度と御免だと、そう思いながら。












 一仕事終えたシリルは、軽く肩を解しながら町を歩いていた。 

(さてさて、とりあえず全員処置終わりましたわね。
逃げ支度を始めるところまで確認しましたし、問題ないでしょう)

 うーん、と伸びをする。

 海人に危害を加えようとする者達の排除。
 これが、シリルが最近カナールで行っている面倒事だ。
 殺害が一番手っ取り早く確実だが、実害が出ていないならば脅しに止める他なく、
実害を出してしまっては本末転倒なので、色々面倒なのだ。
 
 当然だが、ただ妬みの視線を向けてくるだけなら排除はしない。
 そこまでやっていてはキリがないし、妬み自体は誰しもが持つ感情だからだ。
 排除対象となるのは、明確な悪意を持って彼を襲撃しようと企む連中だけである。
 例えば、今回の連中のように彼がトイレに行く隙を狙ってボコボコにしようとするような。 

 もっとも、これも余計な御世話な気がしなくもない。
 海人ならそこらの三下なぞ返り討ちにするだろうし、以前見た洗脳技術からすればシリルの対処より余程確実だろう。
  
 が、海人が肉体的には貧弱なのも事実。
 遠距離戦ならまず間違いはあるまいが、近接戦に持ち込まれるなどの状況では万一がありえる。
 友人としては、数を減らしておいてやるぐらいの気遣いはしておくべきだろう。
 
 とはいえ、本当に減っているのかは正直半信半疑であった。
   
(……私とお姉さまはともかく、他の妬まれる要因はどうにもなりませんし……どうしたものやら)

 難儀な性質の友人を憂い、天を仰ぐ。

 海人に危害を加えようとする連中の動機は、概ね妬みだ。
 容姿に優れた女性二人と常に行動し、一部町の女性から熱い視線を受ける彼への。
 仕事が来ればルミナスとシリルはいなくなるので原因が減るが、町の女性はそうもいかない。
 
 とはいえ、シリルからすればそちらは見当外れにも程がある妬みだ。

 海人が一部から人気があるのは、容姿や店での金払いの良さもあるが、大きな要素はその態度。
 様々な店で店員と接する時など、何気ない所で礼儀正しさや人当たりの柔らかさが出ており、
それで好感を抱かれる事が多いだけの話なのだ。
 単にこの町に住まう男の大半がそういった要素に欠けるだけで、彼の態度自体は特別素晴らしいわけではない。
 それも直接接した事のない人間で分かっている人間は極めて少ないときている。 
 有り体に言ってしまえば、海人に向いている視線の大半は心がけでいくらでも自分に向けられるはずなのだ。

 シリルからすれば妬む前にそれぐらいやれと言いたくなるのだが、
実際にはやる者はおらず、海人を過度に妬む馬鹿が消える様子はない。
 結構な頻度で数を減らしているのに、だ。

 もっとも、救いがないわけでもない。 

(……今まで行った店の人に情報提供をお願いしただけで、こうも容易く情報が集まるんですものね)

 くすっ、と思わず笑みがこぼれる。

 シリルが処理すべきと判断する材料の一つは、主にこれまで訪れた店からの情報提供だ。
 彼らが小耳に挟んだ悪巧みの情報などを教えてもらうだけだが、結構な量の情報が集まる。
 それを軽くふるいにかけ、状況に応じて周囲を探るだけで精度の高い判断が出来てしまう。

 おかげでシリルは情報収集の労はほとんどなく、処理に専念できているのだ。

(次の仕事が来た時も、その事と計画的に狙われる事がままあった事を教えれば、後は自分で何とかするでしょう。
まあ、あの人里離れた屋敷からそうそう出てくるとは思えませんけれど)  

 そんな事を考えながら歩いていると、ルミナスと海人の姿が見えてきた。

 こちらに気付いた二人に、シリルは穏やかな微笑みを向ける。
 二人に告げた通り、ただトイレに行くついでに茶菓子を買ってきただけ、そう見えるように。  





 番外編138




 とある日の正午過ぎ、海人達主従はリトルハピネスの前に並んでいた。

 丁度混み合う時間なので当然と言えば当然だが、なかなか入れる気配がない。
 どの客も料理が出次第さっさと平らげて帰っていくのだが、それでも彼らの前にはまだ五人ほど並んでいる。
 かれこれ一時間は待っているというのに、だ。

「ふむ、商売繁盛で結構な事だ」

「う~……そりゃいい事ですけど、お腹空きましたぁ~」

「もうすぐ入れるんだから、情けない声を出すな。
そもそも、何にするか決まったのか?」

「……さっきから、決めた途端売り切れるんだもん」

 ぶすっと唇を尖らせ、メニューの載ったボードに目を落とす。

 そこには白字で色々なメニューが書かれているが、所々バツ印で消されている。
 どれも並んでいる間に売り切れてしまった料理であり、雫が目をつけていた物だ。

 最初に食べたいと思ったのは日替わり料理の一つ、ブレイブバードのもも肉のガーリックソテー。

 横の説明書きによると、さらに付け合せとして三種の温野菜が付いてくるという。
 肉汁たっぷりのもも肉に、程良く火を通したにんにくをまぶし、御飯に乗せ、頬張る。
 それをたっぷりと堪能し、少し飽きてきたところでおもむろに温野菜へ手を伸ばす。
 穏やかな野菜の滋味が口内をリフレッシュし、再び興奮に満ちたメインを食べられる。
 それを想像した瞬間、雫はこれだと決めたのだ。

 が、その直後申し訳なさそうなウェイトレスにより、品切れが伝えられた。
 人気があったらしく注文が殺到し、肝心要のブレイブバードが無くなってしまったらしい。

 派手にすっ転びながらもどうにか起き上がった雫は、気を取り直してメニューを選び直した。
 ここは人気店だし、メニューが豊富な分仕入れは少し抑えているので、品切れ自体はそう珍しくない、と。
  
 そして選んだのが、同じく日替わり料理である白身魚のソテーのクリームソース添え。
 
 軽く粉をはたいて香ばしく焼き上げ、添えたソースにつけながら食べるというそれは、実に美味そうだった。
 実際入り口近くの席で食べている客がいたのだが、カリッと焼けた魚を切り分け、
濃厚なソースにつけて食べる姿はなんとも楽しそうで美味しそうだった。
 付け合せの野菜との相性も素晴らしかったらしく、その客は終始頬が緩みっぱなしだったのだ。
 そして、クリームソースなら米との相性はそう悪くない。
 濃厚なソース、繊細だが力強い白身魚の旨味、どっしりとした米の甘味、全てが絡み合い素晴らしい味になるだろう。

 そう思ってこれ、と決めた瞬間、再びやってきたウェイトレスが非常に申し訳なさそうにバツ印を書いていった。
 聞いてみれば今日は良質な白身魚が少なかったらしく、他の料理より用意出来ていた数が少なかったらしい。
 さらに開店と同時になぜか多数の注文が入り、多少残った物もついさっき尽きたとの事だった。

 くすん、と鼻を啜りながらも雫はメニューを再び選び始めた。

 仕方ないと言えば、仕方ない事だ。  
 この店は味は非常に良いが、値段はかなり割安なのである。
 当然仕入れ値はある程度抑えざるをえないだろうし、それで良質な材料を数揃えるのは難しいはずだ。
 悲しくはあるが、ありえない話でもない。 
 
 が、その後も雫が決めたメニューは尽く売り切れた。
 最終的には計五品が売り切れになり、その全ては雫が狙った料理だったのだ。 
 正直、心が折れそうだった。
 
「まあ良いじゃないか。定番メニューはいくら何でも残るだろうし」

「むしろそれまで無くなったら、あたしはミッシェルさんに齧りつくかもしれません」

「やめんか。ほら、もう入れそうだぞ」

 がるる、と唸る妹を宥めながら、少し奥の方のテーブルを指差す。
 そこでは四人掛けのテーブルに座っていた客が会計を済ませ、立ち上がっていた。
 一人のウェイトレスがその客を見送りがてら入口に、もう一人のウェイトレスが電光石火の速度で皿を一気にまとめて片手で抱え、
もう片方の手に持った布巾でテーブルをピカピカに磨き上げている。

 それから数秒もしない内に、海人達は席に案内された。  


 
 







 海人達が食事を終えると、既に行列はなかった。
 ぎっしりと人が詰まっていた店内もちらほらと空席が出来、長閑な空間になりつつある。

「あ~、美味しかったぁ~♪」

 並んでいた時の暗さはどこへやら、雫はすっかり満足しきった顔でお腹を撫でていた。
 結局食べられたのはいつでも食べられる定番メニューだったが、味は確か。
 目当てが食べられず残念な想いを吹き飛ばすほどに、美味い料理だった。

 現金な雫に海人と刹那が苦笑していると、店主であるミッシェルがやってきた。
 
「いやいや、すまなかったねぇ。今日は尽く日替わりのメニューが売り切れちゃってねぇ……」

「それなんですが、何かありましたか? ここでここまで売り切れが続くのは初めて見ましたが……」

 申し訳なさそうに頭を下げるミッシェルに、海人が首を傾げる。

 ミッシェルの息子であるゲイツの曰く、この店は仕入れ量は抑えているそうだが、売り切れはあまりないらしい。
 なんでもミッシェルの見極めの技術が凄まじく、その日どのメニューがどれだけ売れるか、
非常に高い精度で予想してしまうのだという。
 その上で多少の余裕をもって仕入れを行うため、売り切れが少ないのだと。

 実際、ここまで売り切れが続くのは海人も初めて見たのだ。 
 
「あー……ちょいと開店直後に団体客が来て、その人達にほとんど出しちゃったんだよ。
前もって予約入れといてくれればもっと多く仕入れてたんだがねぇ……」 

 はあ、とミッシェルは肩を落とす。

 件の団体客は、一応上客だった。
 態度に横柄な所はなく、料理も全ての種類を注文し、分けあいながら残さず味わってくれたのだ。
 そして食べ終えた後は値段ぴったりで支払い、どれも美味しかった、と笑顔で帰っていってくれた。
 初めて見る顔だったが、常連になってくれると嬉しい御客だった。  

 が、唯一の難点が――――人数が客席数の二倍という超大所帯だったのだ。

 仕方なく二回に分けて入ってもらったのだが、一巡目で入った御客がそれぞれお薦めを教え、
その大半が数が少な目の日替わりだったものだから、大変だった。

 この店で一番お得なのは、定番メニューである。
 仕入れ量が多く、また毎日の事なので仕入れ値をある程度抑えられているのだ。
 その為値段は安く、かつ作る事が一番多く、小まめな品質向上を行っている為、
味と値段のバランスという意味では一番お得なのである。
 定番といっても多数存在し、日によってどれを出すか変えているので、飽きの心配も少ない。

 対して日替わりは、お得とは言い切れない。
 値段は良心的な価格にしているが、内容がミッシェルの気分で決まる為、
定番に比べると最終的な品質でどうしても落ちてしまう。
 あまりないが、高級食材を使用する時などは当然価格も高くなる為、余計にそうなってしまい、
客もなんとなくそれを察しているのか、悩んだ挙句定番を注文する人間の方が多い。
 
 ゆえに日替わりの仕入れは抑えているのだが、今回はそれが思いっきり裏目に出た。
 普段昼の客が増え始める時間帯、そこが平時の昼食時間終了間際のような材料状況になってしまったのである。 
  
「なるほど、突発的な団体客ですか……大変でしたね」

「なに、なんてこたないさ。夜の分の材料も結構使ったんで、追加で仕入れなきゃならないがね。
折角だし、今日は品数増やすかね。何か面白い食材がありゃいいんだけど……」
 
「ふむ……ではこれなどいかがでしょう?」

 悩むミッシェルに、海人は荷物から取り出した物を見せた。
 
 一つは、おろし金。
 一般的な物よりもかなり目の細かい物である。

 そしてもう一つは、緑色の植物。
 小さな根菜のような外見で、表面がやたらとボコボコしている。
 
「……これ、ひょっとして山葵ってやつじゃないかい!?」

「ああ、御存じでしたか。いつぞや醤油を持ってきた際、刺身が臨時でメニューに加わったでしょう?
あれに山葵があれば尚よかったかと思いまして、持ってきました」

「これが刺身に最高の薬味ってやつかい……いくらだい?」

「今日はあくまでもお土産です。ま、気に入っていただけたら次回値段を決めましょう」

「相変わらず商売っ気ないねぇ……まあ、今はいいか。
確か、皮向いてすりおろして使うんだよね?」

「ええ。ただ、一番多い使い方がそれだというだけですので、無理にこだわる必要はないかと。
例えば――――」

 ミッシェルの問いに、海人は思いつく限りの山葵の使い方を並べ始めた。

 すらすらと出てくるそれを、ミッシェルは余す事無く記憶していく。
 そこからいかに発展させるか、それも並行して考えながら。

 ―――この後熱中しすぎて、危うく追加仕入れに行けなくなりかけるとも知らずに。 

 


 

 番外編139





 ハロルドは、半ば趣味でやっている屋台で溜息を吐いていた。

 この屋台は、彼が長年やりたかった花屋だ。
 極端な高価格帯の花は少なく、庶民に手の届きやすい価格帯の物を主体に揃えている。
 無論それだけでは花屋としての魅力に欠ける為、色、形状、香りなど一つ一つが個性的な物を揃え、
御客に選ぶ楽しみを与えるだけでなく、花束を作る際にも細かい客の注文に応えられるようにした。

 おかげでここには様々な客がやってくる。
 綺麗な花が欲しいと小遣いを握り締めてやってくる少女、花好きな恋人の誕生日に花束を贈りたいとやってくる青年、
遠路はるばるやってくる孫娘に奮発した花束をプレゼントしたいという老人。
 ここはそれら千差万別な人の注文に応え、大半に満足して帰ってもらえる、商人として実に楽しい屋台なのだ。

 この町の運営については若い人間が少々頼りない為、未だ仕事量が多く忙しいのだが、
その息抜きとして丁度良い店なのである。
  
 なので普段は溜息など吐かないのだが、今日は吐かずにはいられなかった。

(ぬうう……やはりもったいない、あまりにも、もったいない……!)

 今日何度目になるか分からない溜息を吐く。

 溜息を吐き始めた最初の切っ掛けは、朝一に来た女性客。
 美女という程ではないが、楚々とした清潔感が漂う女性だった。

 朝の晴れやかな気分に相応しい客だと気合を入れて応対したのだが、
彼女はハロルドを見るなり首を傾げ、おずおずとこう訊ねた。
 
『あの、先日は若い方々がやっておられませんでしたか?』 

 聞いた瞬間、ハロルドは天を仰ぎたくなった。

 確かに、昨日まで若い人間―――海人に任せていた。
 家族の恩人たる若者の商才を確かめる為に。
 結果次第では、全面的なバックアップの元で店を出せるよう取り計らうつもりで。

 結果から言えば、彼はその期待に見事応えきっちり売上を出してくれた。
 時折部下にチェックさせていた時の接客も完璧で、態度も手際も見事と言う他なく、
その前にゲイツの屋台を手伝っていた時の奇跡的な大繁盛がまぐれでも何でもない事を知らしめてくれたのだ。

 が、ここで誤算が生じた。
 
 いざ店の話を持ちかけたら、断られてしまったのだ。
 初対面の人間を警戒する癖がついている為、接客はかなり厳しいものがあると。
 その表情にも、嘘の色は見当たらなかった。  

 なので渋々諦めたのだが、その商才はあまりに惜しすぎると思っていたのだ。
 
 そこに、品揃えではなく店員を覚えているリピーターが現れた。
 しかもよくよく話を聞けば見舞い用に見繕ってもらった花束の色彩が気に入り、
それをここから離れた町の友人に渡すなり、自宅用に購入する為すぐに戻ってきたという。 
  
 この屋台は様々な要望に応えられるようにできているが、使いこなすのは難しい。
 多様な要望に応えられる分選択肢の幅が広く、広い知識や色彩感覚がなければ宝の持ち腐れになりかねないのだ。
 特に花束は難しい為、ハロルドは任せる前に定番の組み合わせだけを教えていたのだが、
話を聞く限り彼が売ったのは自分が教えたそれとはまるで違っていたようだった。 
 
 そして彼が臨時の代理だった事を伝え、ハロルドが言われたイメージ通りに作ってみたところ、
笑顔で買ってはくれたものの、表情にほんの僅かな陰りが見えた。
 おそらく、良いには良いが前に買った物より少し落ちる気がしたのだろう。
  
 やはり惜しい、そんな事を思っている間に同様のリピーター客がどんどんやってきて、
その度に彼の優れた手腕を思い知らされた。

(……まったく気の毒にのう……今時珍しいぐらい善良な若者だというのに)

 今朝仕入れたばかりのゼオンシュライツを眺め、視線を落とす。

 己の才を殺す。
 その虚しさが分からない程、あの青年は愚かではないだろう。
 それを重々承知の上で、彼はそれを選んでいるはずだ。

 その原因となるのは、彼の異常なまでの警戒心の強さ。

 初対面の相手を反射的に警戒してしまう。
 しかもそれで無駄に疲弊するだけと分かっていながら、緩急が付けられない。
 これは、人から狙われる事が常態化していたと見ていいだろう。
 
 それだけの恨みをかっていた悪人、と見る事も出来るが、ハロルドの見解は違った。

 娘と孫娘は、戦場と化したこの町で彼に命を救われている。
 それも娘の方は瓦礫に体を挟まれ動けなくなっていたらしいというのに。
 あの状況なら二人まとめて見捨てても仕方ないと済まされそうなものなのに、だ。 
 正直、かつて悪人であったと言われるより、逆恨みを受けすぎて心が折れた善人と見た方がしっくりくる。
 
 世界の残酷さに思いを馳せていると、見知った顔――――この町の長老の一人、イザベラがやってきた。 

「やあ、ハロルド。景気悪い顔してるねぇ」

「なんじゃ、イザベラ。宿の方はどうしたんじゃ?」

「夕食用の買い出しだよ。野草系が切れちまってねぇ……」

「ふぉっふぉ、あのイザベラが買い出しとはな。
若い頃は薬草だろうが野草だろうが自分で摘んでくればタダとか言っておったのにのぅ」

 懐かしむように、目を細める。

 思い出すのは、若かりし日のイザベラ。
 魔物に襲われ商品と馬車を失いながらも、
その気になれば商品はタダで仕入れられる、と魔物の跋扈する山に突っ込んでいったその勇ましき姿。
 冒険者も躊躇する危険地帯に年若い女商人が突貫していったあの姿は、未だに語り草になっている。
 
 あの大胆さ、というか無謀さの片鱗でも海人にあれば、と思わずにはいられない。

「この辺りにゃ良いのが生えてないんだよ。
かと言って、あるとこまで足を延ばすのはこの年じゃキツいからねぇ。
んで、何か考え事かい?」

「ああ、カイト殿の事じゃよ……やはり、勿体無くてなぁ」

「……それか。仕方ないだろ。己の才をどう使うかは結局本人次第。
確かにあまりに惜しい才覚だがね、活かすつもりがないなら諦める他ない」

「確かにそうなんじゃがな……」

「ま、私らがやれる事は、せいぜいその才を活かす気になった時、
最大限の機会を与えてやる事ぐらいだろう。
なぁに、彼はまだ若い。十年以内には変化もあるさ」

「十年か、まあそれぐらいならなんとか生きられるかの」

 ふ、と苦笑する。
 
 既に七十を越えて久しいこの身。
 十年経てば当然八十を越えてしまう。
 最近は体の衰えも顕著になり始めている。

 まだまだそこらの半端な若者に劣るつもりはないが、後十年生きられると断言はし辛かった。

「安心しな。あんたがくたばっても私はあと三十年は生きる。
あんたが死んでも、あたしが機会作るだけさ。
しかしあんた、十年は生きなきゃファニルちゃんの花嫁姿見られない可能性もあるんじゃないかい?」

「ぬっ!? た、確かにそうじゃ……! ファニルの花嫁姿を見るまでは、絶対に死ねん……!」

 イザベラの言葉に、はっとする。

 ハロルドの現在の夢は、孫娘の花嫁姿を見る事。
 可愛くてたまらない孫娘が満面の笑顔で嫁いでいくその姿を見る事こそが、夢なのだ。
 それを見ずして死んでは、確実にこの世に未練が残る。
 
 そして十年以内に寿命が来てしまうと、それが叶わない可能性は高い。

 孫娘のファニルはまだ九歳。十年後でも二十歳になっていない。
 一応法律では十六から結婚できる事になっているが、現実には二十歳を越える事が多いのだ。
 
 ならば、十年程度気合で生き延びられぬはずがあろうか。
 例え全ての筋肉が削ぎ落ち、骨と皮だけになったとしても、強引に生き延びる、生き延びてみせる。 
     
 先程までの落ち込みぶりはどこへやら、ハロルドは一気に生気を取り戻し始めた。

(ってか、オーガストの馬鹿と未だに張り合い続けてるあんたが、たった十年で死ねるわきゃないだろーに) 

 老いてなお元気いっぱいすぎる自覚がない友人に、イザベラは密かに溜息を吐いた。

 
  


 番外編140

 




 とある日の早朝、海人は地下室で研究に集中していた。

 彼の前にあるモニターに映し出されているのは、複数の新たな魔法術式。
 改善改良のレベルが年々下がっており、この先は先細りしていくのみ。
 そう言われている魔法学の常識を粉砕し、下がり始める前すら軽く凌駕するレベルの改善・改良を行い、
果ては未だ見出されていない新たな効果の魔法をも生み出しているのだ。

 その内の一つでもこの世界の学者が知れば嫉妬と絶望で憤死しかねないシロモノなのだが、
海人の表情にあるのはそれにはあまりにも似つかわしくないものだった。

(ちっ……これだけ時間をかけてこの程度とはな)

 あからさまに不満そうな表情を浮かべ、海人はキーボードから手を放した。

 荒れ狂う感情ごと吐き出すかのように、息を吐く。
 一度では足りず三度四度と繰り返したものの、その甲斐あって次第に気が静まってくる。
 ほぼ完全に平静を取り戻したところで、海人は仕上げとばかりに手近にあった緑茶を一気に飲み干した。

 ――――海人にとって眼前の成果は、あまりにも物足りないものだ。    

 確かにこの世界の魔法学からすれば画期的どころか、歴史的な成果だろう。
 例えば今しがた完成した上位光攻撃魔法の術式一つ世に出すだけで、戦場の常識が大きく変わる。
 現在最高効率と言われている上位光攻撃魔法と比較しても、威力は倍、有効射程も倍、
さらにただ狙った一方向に放つだけしかできない前者に対し、その数倍の効果時間のおかげで薙ぎ払うような使い方も可能、
挙句消費魔力は半分以下と比較する事すら馬鹿馬鹿しい差があるからだ。
 若干術式は複雑だが、世の有力な戦士たちはこぞって覚えようとするだろう。    
 利便性を考えると、他属性の攻撃魔法術式の多くも過去の遺物として忘れ去られかねない。

 が、それはあくまで普通の観点から見た評価。
 かけた時間と開発者が天地海人という点を考えれば、及第点とすら呼べない。

(……この世界にはない知識、万全の機材、実証実験に快く付き合ってくれる協力者、さらに侵入者すらいない環境。
これだけの条件が揃っていながら……なんとも無様な話だ)

 がしがしと頭を掻きながら、天を仰ぐ。

 既存術式の劇的な改良は、ある程度なら海人の世界における理系の有能な学者なら出来る。
 今の海人と同じ環境が揃っているという事が前提になるが、それさえあればそう難しい話ではない。
 この世界では未だ解明されていない物理現象や発見されていない数学的理論など、攻め口はいくらでもあるのだ。
 
 これまで海人が生み出した全ての成果と同レベルとなると不可能だろうが、
先程の上位光攻撃魔法術式程度なら十年もあれば十分可能だろう。

 そう―――――たった十年だ。

 いかなる分野においても、これは自分が百年生きても生み出せなかったと多くの研究者を絶望させた海人が、
他者がたった十年で生み出せる程度の成果しか生み出していないのだ。 

 それでも絶大な差がある、確かにその通りだ。
 そもそも生み出せる数が違う、それも正しい。
 依然化物である事に変わりはない、そうなのだろう。 

 だが――――本来ならもっと先まで進めるはず。
 否、進んでいなければおかしい。その確信がある。

 それが、まるで歩みを進める足が短くなったかのように届かない。
 速度を上げるべく走ろうとしても、走り方を忘れてしまったかのように走れない。
 目指すものは見えており、歩みを進めるだけなのに、遅々として進めない。
 
 最愛の妻、そして生まれるはずだった我が子と共に消えた探究心と研究への情熱。
 物心ついてからずっと共にあったそれが無くなった影響は、あまりにも大きかった。

(大事な者は、何があっても守りたい者はいる。だが……それだけでは足りん、か)

 目を閉じ、思う。

 この世界での友人、特にルミナスやシリル、宝蔵院姉妹は海人にとって非常に大事な人間だ。
 彼の手の届く範囲で彼女らに害為す者あらば、それが何であろうと全力を持って滅する程に。
 その為に避けられぬとあらば、全ての手札を切る事も辞さないし、
新たな手札を作る為に命を削る事すら迷いはしない。

 だが、それだけでは足りないのだ。
 
 かつての海人は、良くも悪くも研究自体は心の底から楽しんでいた。
 取りかかっている最中は、意識せずとも一切の雑念が消え、純粋に研究に夢中になっていられたのだ。

 今は、それがない。

 少し前までのように研究の先を思って虚無感に襲われる事は無いが、代わりに恐怖が襲ってくる。 
 特に魔法術式を考えている時は、あの最悪の事故を、その絶望を思い出し、恐怖に慄く。
 また自分の馬鹿さ加減のせいで全てを失うのではないか、と。     
  
 そのせいで本来確認する必要すらないはずの事まで確認せずにはいられず、
結果としてそれが研究の更なる遅れを招いている。

 不甲斐ない、馬鹿げている、頭では分かっているが、止まらない。
 そもそも、あの事故の時も少しでも影響のありそうな事は入念にチェックしていたのだ。
 それで事故が起こった以上、見通しが甘かったと言わざるを得ない。
 どう考えても関係ないとしか思えない事も、逐一チェックせずには気が済まないのだ。 

 それをせずに、またあんな事が起きれば。

 刹那達が使う魔法で、何か不測の事態が起きればどうなるか。
 もしも魔法が、彼女達自身に襲い掛かるような事になればどうなるか。
 上位ドラゴンすら一撃で仕留めかねない威力が、彼女らに降りかかればどうなるか。
 それを想像し、海人の体が震えた。

 そんな彼の背に、穏やかな声が掛けられる。

「……海人殿」

「……っと、刹那か。すまん、入ってきたのに気付かなかった」

 沈んでいた表情を微笑みに変え、背後に振り向く。
 そこには、先程までの苦悩の色は一切見当たらなかった。

「そうですね。御茶をお出しした事にも気付いておられないようですし」

 頭を下げる主の手元を指差しながら、苦笑する。

 先程海人が深呼吸を繰り返していた時に飲んだ御茶は、刹那が出した物だ。
 作業の邪魔をしないよう彼の死角から手に取りやすい位置に置いたのだが、
置いた時は勿論、まだ熱かった御茶を一気に飲んだ時でさえ気付いた様子はなかった。

 だからこそ―――刹那は先程から彼がどんな表情をしていたのか、全て知っている。

「……重ね重ね、すまん」

「御気になさらず。ですが、悩みや不安があるのであれば気にせず打ち明けていただきたいところです。
もちろん、無理にとは言えませんが」

「ま、そのうちな。私も男なんで、美しい女性の前では少し見栄を張りた―――――」

 ごまかすように笑う海人の言葉を、刹那が遮った。
 彼の頭部をすっぽりとかき抱くような、優しい抱擁で。
 
 何も語らず、ただ穏やかに包む。
 それだけだが、海人の心の焦燥も不安も、それに感化されるかのように消えていく。
 あくまでも自然に、優しく、ゆっくりと。

 やがて、海人は刹那の抱擁から優しく解放された。
    
「……ふむ、刹那。私としては嬉しいが、男の顔を胸に埋めるのは少しはしたなくないかな?」

「そうかもしれませんが、必要を感じれば躊躇う理由はありません。
ところで、今日はどうされますか?」

 本当に余裕を取り戻せたらしい主のからかいを澄ました顔で軽く流し、訊ねる。
 が、海人の視界に映る彼女の頬は、朱に染まっていた。
 
「……そうだな。どうも今日は集中しきれそうにないし、カナールに美味い物でも食べに行くか。
折角だし、普段は行かないちょっと値の張る店にしよう」

 刹那の気遣いに心の中で感謝しながら、海人はそんな提案をする。
 情けない主の傷に無闇に触れぬよう、だがしっかりと支えようとしてくれる彼女に、少しでも報いる為に。

 そんな主の思いを見透かすように微笑み、刹那はゆっくりと頷いた。   
   
 
コメント

更新ありがとうございました。番外編は食べ物のエピソードが多いような気がします。
[2018/05/29 01:25] URL | ロボット三等兵 #- [ 編集 ]


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